今、ホテルに入りました。前乗りというやつですね。東京駅は通勤ラッシュの最中で、新幹線はさすがに満席でした。自由席にかろうじて座ったんですけど、会社帰りのあわただしい人たちにあおられていました。新幹線通勤の人、多いんだろうな。東京駅だけじゃなくてラッシュ時に電車に乗ると、毎日会社勤めしている人に頭が下がります。
そうやって会社に行って、上司に攻められてリストラを脅されて、家に帰ったら家族の中で孤立して、という生活なんでしょうね。大変だなあ。僕なんかは、これでストレスが溜まったらバチが当たるだろうと思います。まあ、その分、厚生年金やら失業保険やらがないんですけどね。ずっと前、陽水さんが「日本の法律は満員電車に乗らない人は救ってくれないことになってる」と言ってましたけど、そういうことなんでしょうね。それでバランスがとれているということなんでしょうね。政府からすれば。
電車の中でぼうっと外を見ながらミスチルを聞いてました。若い頃(嫌な言い方ですけど、仕方ないですよね。若くないんだから)夜行列車に乗るのが好きでした。外の闇の中でぽつんと家の光が見えたりすると、あそこにも人がいるんだな、ってセンチメンタルな気分になったりしてました。さっきもわずか2時間弱でしたけど、ちょっぴりそんな気分を味わいました。
学生時代は青森まで各駅停車で行ったこともありました。あの頃どのくらいかかったのかな。30時間以上かかった気がします。今だったら、ブラジルまで行ってしまいますよ(笑)。当時は外国なんて別世界でしたからね。北海道をリュックを背負って20日間くらい回るのが精一杯。当時「カニ族」と呼んだんですよ。リュックを背負った後ろ姿がカニのようだというんでそういうネーミングになったようですけど。
つま恋は縁が出来ましたね。最初に来たのはもちろん75年の拓郎・かぐや姫で、その後も85年がありましたし、ハウンドドッグもあの広場でやったかな。エキジビジョンホールもあったし、拓郎さんの取材をつま恋でというのも何度もありました。だって、2003年以降のツアーはたいてい、ここでリハをやったりしてましたからね。去年と今年は「apbank」が加わったわけです。
でも、今からここにいるわけですから明日の「J-POPマガジン」をやるのは無理ということになってしまいますね。横田さんが一人で頑張ってくれます。僕は途中で電話レポートを入れることになってるんですが、すみません、皆さん。「全くもう、オヤジが一人で遊び回っているんじゃねえよ」という感じでしょうね。大宮から怒りの電波が飛んできそうです。
お天気大丈夫かな。晴れ男って自分で言っておきながら情けないですけど(笑)。一日は晴れ男ですけどね、といいわけを言ってますが。でも、雨具は持ってきてますし、自然と友達になるということは雨とも仲良くなるということでもありますからね。適当な雨の方が返って過ごしやすいかもしれませんよ。
どんなコンサートになるんでしょうね。同じ電車で、「apbank」組が結構降りてました。そうか、三連休なんですね。いいお休みになると良いですね。夏の思い出。いくつになっても貴重です。今からシャワーを浴びて、早めに寝て、万全の体勢で望みたいと思います。今日最後の曲。何だろうな。ミスチルの「さよならは夢の中へ」。さっき聞いてたばかりですけど(笑)。じゃ、お休みなさい。
いきなり個人名ですよ、これはまずいかなあ。と言いつつ書いてますが(笑)。通称タムジン。僕と同じ年のカメラマン。拓郎さんを30年以上撮り続けてます。みゆきさんもかぐや姫もみんな彼が記録してきてます。これだけ長い間、ミュージシャンばっかり撮り続けている人も珍しいでしょう。尊敬に値します。ね、悪口じゃないでしょ(笑)。
今日、彼と古い写真を見ていたんですよ。先日、整理に行ったYUI音楽工房の倉庫から見つかった写真を彼のところに戻そうというんで、それを見ながらいろんな話をしていたんですけど、その時に、あっと思ったことがありました。
彼も、ある時期の写真が抜けて居るんだそうです。つまり、ネガやフィルムが手元にない。編集部に全部渡してそのままになって行方不明というのがかなりあるということでした。みんな70年代の前半。それを聞いて、何気なく「こんなに長くやると思ってなかったんじゃないの」と言ってしまったんですが、彼も「それなんだよね」と、うなずいていました。
ここからが昨日の続きでしょうね。そうなんですよ、その時に僕も思ったんですけど、僕も手元に当時の台本とかが全く残ってないんですね。録音が終わったり放送が終わると捨ててしまったんでしょう。保存とか、記録ということに無関心だった。かっこ良く言えば「生き急いでいた」。これは格好良すぎだね(苦笑)。
ゴーイングアンダーグラウンドの「ハートビート」に”生き急ぐ僕らの 生まれかけた想いを”という名フレーズがありますけど、そんな意識もなかった気がします。放送は消えてしまうからかっこいいんだとか、なんだかんだへりくつを言ってたりしましたね、他人事みたいですけど(笑)。昨日、セイヤングの話をしましたけど、手元にはほんとに全く残ってないんですね。オンエアテープはもちろん台本もないです。その反動か、「J-POPマガジン」は全部同禄をもらってます。
ラジオを止めようかなと思ったのはそれもあったのかもしれません。ハット気づいた時に自分のやってきたことが何も形に残ってなむなしさみたいなものを感じたんでしょうね。まあ、残ってないと言いつつも倉庫一杯に過去のフィルムがあるタムジンと僕とは比較になりませんけど、そんなやりとりにあの当時の空気みたいなものを感じてしまった次第です。仁さん、名前出してしまってごめん。改めてよろしくお願いします(笑)。
誰もが自分のやりたいことを最初から知っているわけでもありませんし、ライフワークなんて大人になって気づくことなんだと思います。とりあえず手当たり次第にやって行く中で見えて来たり、分かってきたりするんでしょう、と、今日はどこか教訓的ですけど(苦笑)。最後の「教訓Ⅰ」かな。でも、テーマはかなり違いますね。
「apbank」のお天気、厳しいですね。でも、僕は晴れ男だから大丈夫でしょう。それより清志郎さんの喉が心配です。今日最後の曲。みゆきさんの「明日天気になあれ」でしょうか。さっき散歩に行ったときは月が出てましたけどね。じゃ、お休みなさい。
まあ、昨日の続きですね。セイ!ヤングです。今も文化放送では甲斐よしひろがやってるみたいですけど、時間帯が変わってますね。かつては午前一時から三時でした。そうだ、甲斐よしひろさんも担当していた事がありますね、と、いきなり思い出しました。彼と初めて会話したのは放送が終わって、明け方でした。
文化放送の前にある朝までやっているお店だったんじゃないかな。段々思い出してきた。77年頃かな。その前に、小室等さんの番組で、福岡のライブハウス「照和」に取材に行ったんだ。セイヤングを終わって、食事をしている彼に、僕と数人でお酒が入っていて、その中の一人が割としつこく話しかけていたんですよ。甲斐さんも「照和」で唄ってましたからね。彼も、その時、どういう人がいたかまでは覚えてなくて、数年後、取材でちゃんと会うことになった時にその時に話しかけた連中は「良い印象がなかった」と言ってました。夜明けの無礼講という感じだったんでしょうね。
話がいきな違う方に行きましたね。でも、ふっと書き出すことで記憶が思いがけない方に行ったりします。そう、今日、思ったんですよ。記憶力という言い方をしますけど、正確には「思い出す力」なんじゃないかって。つまり”覚えている”んじゃないんですよ。”思い出す”んですよ。そうやって思い出すことが多い人を”記憶力がいい”と言うんじゃないかって。それがどうなんだ、と言われるとそれまですけど(笑)。
僕が「セイヤング」の構成者として関わっていたのは落合恵子さん、みのもんたさん、せんだみつおさんでした。みんなカラーが違いますよね。みのさんとせんださんは下ネタもあって近かったかな。結構エッチな話もしてました。落合さんは正反対でしたけどね。彼女は良かったなあ。あの声のエロキューションというのかな、あんな人は、今もいませんね。
みのさんとせんださんはあんまりふざけすぎて、デイレクターが四谷警察に呼ばれたりしてましたね。青少年に悪影響を及ぼすとか言われて。でも、当時のデイレクターが偉かったのは、「これも勲章だよ」と笑い飛ばせたことでしょう。今は、びびってしまって大変でしょうね。みんなおもしろがってました。というような話をすると”時代が違う”と言われそうですけどね。
でも、週三回は明け方まで局にいたんですから文化放送が育ててくれたことは間違いありません。。そうだ、何年か前、文化放送のみのさんの生放送に音楽のことでゲストに呼ばれたんですよ。会ったのは二十年ぶり、もっとかな。彼は「偉くなったよねえ」と喜んでくれました。素直にうれしかったですよ。二軍選手が何年かして会った当時のコーチにほめられたみたいなものでしょうか。
みのさん、すごいよね。元気だものね。不死身ですよね。当時一緒に仕事をした人が頑張ってくれているのは励みになりますよ。もちろん拓郎さんに対してもそうですけど。あの人があんなに元気だからこちらも頑張らないとと思えるし、自分がやってきたことが間違ってなかったみたいに確認出来るんでしょう。それはヒムロックと一緒にCDを作ったGLAYも同じでしょう。
みのさんと言えば、当時もそうだったんですけど、そうやって会った時も「田家」と呼び捨てにしない人でした。必ず「くん」をつけてましたね。今でもきっと誰に対してもそうなんじゃないでしょうか。彼がスタッフに好かれるのはそういうこともあるんだと思います。
来週の月曜日、文化放送の「団塊クラブ」に出るんですよ。四谷移転での旧社屋での最終放送週。せいぜい懐かしんでみようと思います。でも、つま恋の「apbankフェス」からのトンボ帰りなんで、その辺の体力が少し不安ですけどね。
そう、またまた思い出した。「セイヤング」で老人の日に「セイ!オールド」というタイトルで老人ホームを結んでやろうという冗談みたいな企画を作ったことがありました。結局通らなかったんですけど、今になって、それをやろうとしている感じですね。「セイ!団塊」ということなんでしょうからね。
蒸し暑いです。昨日、一昨日と出かけていた美也子が今日はぐったりです。猫は暑さに敏感ですね。ということで、今日最後の曲。何だろうな。これかな、ビートルズ「WHEN I’m 64」。私が64才になるとき。昔は何で64何だろうと思いましたけど、今は妙にリアル(笑)。でも、夢の中では誰も年をとりませんから。お休みなさい。
謎かけみたいなタイトルになりましたね。でも、そういう一日だったんですよ。今日もいろんなことがありました。まあ、そういう意味で言えば昨日からなんですけどね。昨日、弟猫の「デブ猫ジミー」がぎっくり腰になったんですよ。もちろん人間で言えばでしょうけど。ちょっとだけ外に出ていて戻ったら、いきなり動けなくなってしまい、カミサンが医者に連れて行ったら、ヘルニアと言われたそうです。
太り過ぎなんですけどね。15、6才にもなって5キロもある猫はいないと医者にも言われたらしく、彼女もかなりショックを受けてました。だって、このままじゃ動けなくなって安楽死させるしかないと言われたようなんですよ。少しやせさせて負担を軽くしないと、すぐにそうなると言うんですから。安楽死か、と、「ガーン」を頭を殴られたような感じでした。
とりあえず消炎剤の注射を打って、という、人間と同じ処置ですが、費用は人間よりかかりました。注射一本打って数千円。それも後半の方の数千円。でも、背に腹は代えられませんよね。今日は、何とか歩いてましたけど、それが注射のせいか、本当に回復しているのかは分かりません。もう少し様子を見ないと。
そんなわけで昨日は、なんだかんだ大変で、今日は、朝から出かけてました。と言っても昨日が大変だったということと、今日朝から出かけてことは何の脈絡もないですけどね(笑)。今日は、「つま恋」のスタッフと、かつてのYUI音楽工房の倉庫整理に行ったんですよ。
今、コンサートブックレットを作ってます。そこに入れる未発表資料が残ってないかということだったんですが、いやあーいろいろありました。まるで宝探しみたいでした。もちろん個人的な好みではなく、使えそうな資料としてなんですが、それはもう完成したものを楽しみにしてもらうしかないです。是非、手にとって見てください。相当レアです。
で、その途中に、一緒に行った某大手出版社の人と話していて、「セイ!ヤング・ビレッジ」の話になったんですよ。 「なんじゃそりゃ」という人の方が多いでしょうけどね。でも、それはまあ、毎回のことですから我慢してください。
文化放送に「セイ!ヤング」という深夜放送があったことはご存じでしょう。で、番組が機関紙を持っていたんですよ。タブロイド判8pのカラー。「夕刊フジ」のサイズで、表一は二つ折りという当時としては洒落たデザインの新聞でした。月刊です。リスナーに切手を送って申し込んでもらうというものですね。そのタイトルが「ザ・ビレッジ」でした。当時創刊したばかりのニューヨークの「ビレッジ・ボイス」にあやかったんですけどね。
その編集を僕が一人でやっていたんですよ。デザイナーと二人ですね。原稿は基本的に全部僕。深夜放送の機関紙でしたけど、かなり文化的で(自分言うのも何ですけど)、子供たちに分かるのかなというレベルだったと思います。で、その一緒に行っていた編集者が、それを購読していたというんですよ。
いや、うれしかったですよ。だって、市販している雑誌じゃなくわけですからね。そんな機関紙があったことすら知らない人がほとんどでしょう。ゲリラ的でしたからね。どのくらい出ていたのかな、1万は出てなかったと思いますね。彼は、当時、高校生だったと言ってました。おまけにその出版社は、僕が就職試験で落ちたところなんですよ。
思いがけず、自分の中の空白が埋まったというのかな。それまでしまっていた扉が開いたというのかな。どこかにちゃんと見ている人はいるんだなという確認というんでしょうか。CDで言えばどんなに数千枚しか売れてないものでも、ちゃんと聞いている人はいるんだよ、ということでしょうか。そういう人がスタッフなんですから、つまらないものが出来るはずがありません。楽しみにしていて下さい!
夜は、某音楽事務所のプロデユーサーと会食。こっちも楽しかったですね。こんな風にずっと音楽を聴いてきている人がいるんだ、と発見&確認。何とも頼もしい限りでした。そんなわけで、今日最後の曲ですね。何だろうな。彼が、日本語の訳詞を諳んじてたんでびっくりした曲を。デイランの「時代は変わる」というのを最後に。明日は、もっと良い世の中になっていますように。
と言っても知らない人がほとんどでしょうね。まあ、毎回知らないことの方が多いかもしれませんが。こうやって仕事でもなんでもないところで思いついたことを書いていると、年が分かりますね。書かなくても分かるよ、と言われるかもしれませんが(笑)。
東映フライヤーズというのはプロ野球のチームです。辿りたどれば、今は日本ハムファイターズです。フランチャイズは札幌ですよね。今、好調で、昨日今日と負けましたけど、11連勝をして優勝戦線に食い込んできました。
で、11連勝というのが前身の東映フライヤーズ時代以来だという話が新聞に載っていたんで、思い出した次第です。それも1961年以来とありました。やっぱり思い出すんですよ、あの頃のことを、何しろ年ですからね(笑)。
東映フライヤーズは僕のヒイキチームでした。名前の通り、東映がスポンサーだったんですよ。「映画は東映、野球も東映」というのがキャッチフレーズでした。本拠地は駒沢球場。今の駒沢公園のところにありました。もちろん土のグラウンドで、観客席との境は金網一つ。興奮したファンがグランドに降りることでも有名でした。
柄の悪い球場でした(笑)。選手にもそういう荒っぽい人が沢山いて、捕手の山本八郎という人は、審判の判定がおかしいと下駄を持って追いかけてしまい出場停止になったこともありました。彼の出身は大阪の波商で、その後輩が張本選手とか中日の監督の牛島選手ですね。
でも、面白い球団でしたよ。キャッチフレーズは駒沢の暴れん坊。サインもなして選手に好き放題にやらせるという管理野球の対極でした。応援団のヤジもすごくて、でもユーモアにあふれていて、当時、南海ホークスの看板選手だった現楽天監督の野村克也さんはいつも野次り倒される筆頭でした。「頭の悪い野村」というのがその台詞だったんですけど、大阪の喜劇王と言われた藤山寛美さんに顔が似ていたんで、そう言われたんですけどね。寛美さんはアホ役が売りだったということだけでした。
で、1961年というのは東映の監督が水原さんという、慶応出身のスマートな人になって、いきなり強くなった年でした。彼は後に巨人の名監督になりますけどね。でも、1961年は二位でした。翌年62年に初優勝するんですけどね。1962年というのは映画「アメリカングラフィテイ」の舞台となった年です。ベトナム戦争が始まる前、ケネデイ大統領も健在で、ビートルズが上陸する前。アメリカがもっとも輝いていた時代の最後の年ですね。
日本でも、1962年は「いつでも夢を」がヒットした年です。日本シリーズは東映と阪神でした。東映が勝つんですけどね。あれがアメリカングラフィテイに対して、ジャパニーズグラフィテイだったのかなと思ったりします。
東映フライヤーズ。懐かしいなと思った書いてみた次第です。子供の頃、一番多く行った野球場が駒沢球場でした。東京オリンピックの時になくなったんですけどね。昔話だなあ。でも、しょうがなよね、年なんだから。思い出すことがどんどん増えて行ってます。今年の夏も、そのうちきっとそういう昔話になるんでしょうけどね。
ということで、ワールドカップ決勝戦は録画です。明日は、打ち合わせも取材もありますからね。さて、今日の最後の曲は、そうだ、やっぱりこれだ。柳ジョージとレイニーウッド「青い目のステラ、1962年夏..」。あれは名曲です。枕が涙で濡れそうです。