まあ、昨日の続きですね。セイ!ヤングです。今も文化放送では甲斐よしひろがやってるみたいですけど、時間帯が変わってますね。かつては午前一時から三時でした。そうだ、甲斐よしひろさんも担当していた事がありますね、と、いきなり思い出しました。彼と初めて会話したのは放送が終わって、明け方でした。
文化放送の前にある朝までやっているお店だったんじゃないかな。段々思い出してきた。77年頃かな。その前に、小室等さんの番組で、福岡のライブハウス「照和」に取材に行ったんだ。セイヤングを終わって、食事をしている彼に、僕と数人でお酒が入っていて、その中の一人が割としつこく話しかけていたんですよ。甲斐さんも「照和」で唄ってましたからね。彼も、その時、どういう人がいたかまでは覚えてなくて、数年後、取材でちゃんと会うことになった時にその時に話しかけた連中は「良い印象がなかった」と言ってました。夜明けの無礼講という感じだったんでしょうね。
話がいきな違う方に行きましたね。でも、ふっと書き出すことで記憶が思いがけない方に行ったりします。そう、今日、思ったんですよ。記憶力という言い方をしますけど、正確には「思い出す力」なんじゃないかって。つまり”覚えている”んじゃないんですよ。”思い出す”んですよ。そうやって思い出すことが多い人を”記憶力がいい”と言うんじゃないかって。それがどうなんだ、と言われるとそれまですけど(笑)。
僕が「セイヤング」の構成者として関わっていたのは落合恵子さん、みのもんたさん、せんだみつおさんでした。みんなカラーが違いますよね。みのさんとせんださんは下ネタもあって近かったかな。結構エッチな話もしてました。落合さんは正反対でしたけどね。彼女は良かったなあ。あの声のエロキューションというのかな、あんな人は、今もいませんね。
みのさんとせんださんはあんまりふざけすぎて、デイレクターが四谷警察に呼ばれたりしてましたね。青少年に悪影響を及ぼすとか言われて。でも、当時のデイレクターが偉かったのは、「これも勲章だよ」と笑い飛ばせたことでしょう。今は、びびってしまって大変でしょうね。みんなおもしろがってました。というような話をすると”時代が違う”と言われそうですけどね。
でも、週三回は明け方まで局にいたんですから文化放送が育ててくれたことは間違いありません。。そうだ、何年か前、文化放送のみのさんの生放送に音楽のことでゲストに呼ばれたんですよ。会ったのは二十年ぶり、もっとかな。彼は「偉くなったよねえ」と喜んでくれました。素直にうれしかったですよ。二軍選手が何年かして会った当時のコーチにほめられたみたいなものでしょうか。
みのさん、すごいよね。元気だものね。不死身ですよね。当時一緒に仕事をした人が頑張ってくれているのは励みになりますよ。もちろん拓郎さんに対してもそうですけど。あの人があんなに元気だからこちらも頑張らないとと思えるし、自分がやってきたことが間違ってなかったみたいに確認出来るんでしょう。それはヒムロックと一緒にCDを作ったGLAYも同じでしょう。
みのさんと言えば、当時もそうだったんですけど、そうやって会った時も「田家」と呼び捨てにしない人でした。必ず「くん」をつけてましたね。今でもきっと誰に対してもそうなんじゃないでしょうか。彼がスタッフに好かれるのはそういうこともあるんだと思います。
来週の月曜日、文化放送の「団塊クラブ」に出るんですよ。四谷移転での旧社屋での最終放送週。せいぜい懐かしんでみようと思います。でも、つま恋の「apbankフェス」からのトンボ帰りなんで、その辺の体力が少し不安ですけどね。
そう、またまた思い出した。「セイヤング」で老人の日に「セイ!オールド」というタイトルで老人ホームを結んでやろうという冗談みたいな企画を作ったことがありました。結局通らなかったんですけど、今になって、それをやろうとしている感じですね。「セイ!団塊」ということなんでしょうからね。
蒸し暑いです。昨日、一昨日と出かけていた美也子が今日はぐったりです。猫は暑さに敏感ですね。ということで、今日最後の曲。何だろうな。これかな、ビートルズ「WHEN I’m 64」。私が64才になるとき。昔は何で64何だろうと思いましたけど、今は妙にリアル(笑)。でも、夢の中では誰も年をとりませんから。お休みなさい。
謎かけみたいなタイトルになりましたね。でも、そういう一日だったんですよ。今日もいろんなことがありました。まあ、そういう意味で言えば昨日からなんですけどね。昨日、弟猫の「デブ猫ジミー」がぎっくり腰になったんですよ。もちろん人間で言えばでしょうけど。ちょっとだけ外に出ていて戻ったら、いきなり動けなくなってしまい、カミサンが医者に連れて行ったら、ヘルニアと言われたそうです。
太り過ぎなんですけどね。15、6才にもなって5キロもある猫はいないと医者にも言われたらしく、彼女もかなりショックを受けてました。だって、このままじゃ動けなくなって安楽死させるしかないと言われたようなんですよ。少しやせさせて負担を軽くしないと、すぐにそうなると言うんですから。安楽死か、と、「ガーン」を頭を殴られたような感じでした。
とりあえず消炎剤の注射を打って、という、人間と同じ処置ですが、費用は人間よりかかりました。注射一本打って数千円。それも後半の方の数千円。でも、背に腹は代えられませんよね。今日は、何とか歩いてましたけど、それが注射のせいか、本当に回復しているのかは分かりません。もう少し様子を見ないと。
そんなわけで昨日は、なんだかんだ大変で、今日は、朝から出かけてました。と言っても昨日が大変だったということと、今日朝から出かけてことは何の脈絡もないですけどね(笑)。今日は、「つま恋」のスタッフと、かつてのYUI音楽工房の倉庫整理に行ったんですよ。
今、コンサートブックレットを作ってます。そこに入れる未発表資料が残ってないかということだったんですが、いやあーいろいろありました。まるで宝探しみたいでした。もちろん個人的な好みではなく、使えそうな資料としてなんですが、それはもう完成したものを楽しみにしてもらうしかないです。是非、手にとって見てください。相当レアです。
で、その途中に、一緒に行った某大手出版社の人と話していて、「セイ!ヤング・ビレッジ」の話になったんですよ。 「なんじゃそりゃ」という人の方が多いでしょうけどね。でも、それはまあ、毎回のことですから我慢してください。
文化放送に「セイ!ヤング」という深夜放送があったことはご存じでしょう。で、番組が機関紙を持っていたんですよ。タブロイド判8pのカラー。「夕刊フジ」のサイズで、表一は二つ折りという当時としては洒落たデザインの新聞でした。月刊です。リスナーに切手を送って申し込んでもらうというものですね。そのタイトルが「ザ・ビレッジ」でした。当時創刊したばかりのニューヨークの「ビレッジ・ボイス」にあやかったんですけどね。
その編集を僕が一人でやっていたんですよ。デザイナーと二人ですね。原稿は基本的に全部僕。深夜放送の機関紙でしたけど、かなり文化的で(自分言うのも何ですけど)、子供たちに分かるのかなというレベルだったと思います。で、その一緒に行っていた編集者が、それを購読していたというんですよ。
いや、うれしかったですよ。だって、市販している雑誌じゃなくわけですからね。そんな機関紙があったことすら知らない人がほとんどでしょう。ゲリラ的でしたからね。どのくらい出ていたのかな、1万は出てなかったと思いますね。彼は、当時、高校生だったと言ってました。おまけにその出版社は、僕が就職試験で落ちたところなんですよ。
思いがけず、自分の中の空白が埋まったというのかな。それまでしまっていた扉が開いたというのかな。どこかにちゃんと見ている人はいるんだなという確認というんでしょうか。CDで言えばどんなに数千枚しか売れてないものでも、ちゃんと聞いている人はいるんだよ、ということでしょうか。そういう人がスタッフなんですから、つまらないものが出来るはずがありません。楽しみにしていて下さい!
夜は、某音楽事務所のプロデユーサーと会食。こっちも楽しかったですね。こんな風にずっと音楽を聴いてきている人がいるんだ、と発見&確認。何とも頼もしい限りでした。そんなわけで、今日最後の曲ですね。何だろうな。彼が、日本語の訳詞を諳んじてたんでびっくりした曲を。デイランの「時代は変わる」というのを最後に。明日は、もっと良い世の中になっていますように。
と言っても知らない人がほとんどでしょうね。まあ、毎回知らないことの方が多いかもしれませんが。こうやって仕事でもなんでもないところで思いついたことを書いていると、年が分かりますね。書かなくても分かるよ、と言われるかもしれませんが(笑)。
東映フライヤーズというのはプロ野球のチームです。辿りたどれば、今は日本ハムファイターズです。フランチャイズは札幌ですよね。今、好調で、昨日今日と負けましたけど、11連勝をして優勝戦線に食い込んできました。
で、11連勝というのが前身の東映フライヤーズ時代以来だという話が新聞に載っていたんで、思い出した次第です。それも1961年以来とありました。やっぱり思い出すんですよ、あの頃のことを、何しろ年ですからね(笑)。
東映フライヤーズは僕のヒイキチームでした。名前の通り、東映がスポンサーだったんですよ。「映画は東映、野球も東映」というのがキャッチフレーズでした。本拠地は駒沢球場。今の駒沢公園のところにありました。もちろん土のグラウンドで、観客席との境は金網一つ。興奮したファンがグランドに降りることでも有名でした。
柄の悪い球場でした(笑)。選手にもそういう荒っぽい人が沢山いて、捕手の山本八郎という人は、審判の判定がおかしいと下駄を持って追いかけてしまい出場停止になったこともありました。彼の出身は大阪の波商で、その後輩が張本選手とか中日の監督の牛島選手ですね。
でも、面白い球団でしたよ。キャッチフレーズは駒沢の暴れん坊。サインもなして選手に好き放題にやらせるという管理野球の対極でした。応援団のヤジもすごくて、でもユーモアにあふれていて、当時、南海ホークスの看板選手だった現楽天監督の野村克也さんはいつも野次り倒される筆頭でした。「頭の悪い野村」というのがその台詞だったんですけど、大阪の喜劇王と言われた藤山寛美さんに顔が似ていたんで、そう言われたんですけどね。寛美さんはアホ役が売りだったということだけでした。
で、1961年というのは東映の監督が水原さんという、慶応出身のスマートな人になって、いきなり強くなった年でした。彼は後に巨人の名監督になりますけどね。でも、1961年は二位でした。翌年62年に初優勝するんですけどね。1962年というのは映画「アメリカングラフィテイ」の舞台となった年です。ベトナム戦争が始まる前、ケネデイ大統領も健在で、ビートルズが上陸する前。アメリカがもっとも輝いていた時代の最後の年ですね。
日本でも、1962年は「いつでも夢を」がヒットした年です。日本シリーズは東映と阪神でした。東映が勝つんですけどね。あれがアメリカングラフィテイに対して、ジャパニーズグラフィテイだったのかなと思ったりします。
東映フライヤーズ。懐かしいなと思った書いてみた次第です。子供の頃、一番多く行った野球場が駒沢球場でした。東京オリンピックの時になくなったんですけどね。昔話だなあ。でも、しょうがなよね、年なんだから。思い出すことがどんどん増えて行ってます。今年の夏も、そのうちきっとそういう昔話になるんでしょうけどね。
ということで、ワールドカップ決勝戦は録画です。明日は、打ち合わせも取材もありますからね。さて、今日の最後の曲は、そうだ、やっぱりこれだ。柳ジョージとレイニーウッド「青い目のステラ、1962年夏..」。あれは名曲です。枕が涙で濡れそうです。
まあ、”復活”は大げさですけど、どうやら元気にはなったようで、今日は久々の母子散歩でした。いつだっけな、毛玉をはき出させるエサをあげたら、それに耐える体力がなくなっていたみたいで、胃液まではいてしまって、それからずっと寝たきりっぽい状態が続いてました。でも、今日は、自分からムックと起き上がって玄関の方に歩いていって「出る」という意思表示をしてました。久々に、そんな状態だったんで、「出たがりトミー」の方が、ビックリしたらしくて、外に出ても結構、気を遣ってました。
あ、美也子というのは、母親猫です。今年16才。隣で生まれた猫の一匹をもらったんで、一応、出生は明らかです。由緒も血統書もありませんが。生まれた場所も、親もはっきりしているという猫です。もらって、翌年に妊娠してしまい、まだ子供だったせいか、二匹しか生みませんでした。幼妻だったんでしょうね。4匹も5匹もいたら、誰かにあげたんでしょうけど、二匹だし、何となく引き裂くような後ろめたい気もして、結局、三匹飼っているという状態です。姉弟です。
飼っている、という感じはしません。一緒に暮らしている、でしょうね。母子家庭が一組同居している感じでしょうか。という話は以前にも書きましたね。でも、美也子には、兄弟がいて、その中の一匹がとなりで暮らして居るんですが、そちらは、もうほとんど外に出ないで一日家にいると言ってましたね。そういう話を聞くと、美也子の方がまだ元気みたいです。喉をヒーヒー言わせたり、足下がフラフラはしてますけど。
隣は、その猫一匹なんですよ。で、お隣が言うには、3匹一緒だから元気なんじゃないか、ということでしたけど、そうかもしれませんね。6月の初めに沖縄から生放送した時に、カヌチャベイの総支配人兼料理長さんが、沖縄のスローフードについて「家族みんなでゆっくり食べる」という話をしてました。それも同じかもしれませんね。
元気ということで言えば、テレビの旅番組なんかに出てくる漁師さんとかはみんな元気ですね70代とか中には80代で船に乗っているという人もいたりします。あれもそうなんでしょうね。身体を使うと言うことと、みんなで仕事をするという環境。あまりの元気さに見ていて嫌になる時があります。ストレスもないんでしょうね。
そうだ、王監督、緊急手術ですね、話が飛びますが(苦笑)。みんなスーパーマンじゃないんですね。なんだか切ない話です。無事に復帰してくれれば良いですね、美也子みたいにって、全然比較になりませんけど(笑)。
一度、福岡に取材に行った時、みんなで入ったカウンターの魚のおいしそうな飲み屋さんが、王さんの行きつけの店でした。もちろん沢山あるんでしょうけど、普通の店でしたよ。気さくな人ですよ、と板さんが言ってました。いろいろ、新聞によると胃の全摘になるのかもしれないということですね。他人事じゃないですよ。”思い出の夏”を迎えるにも、健康が第一です。
先週、クーラーが壊れました。明日、新しいのが来ます。本来は好きじゃないんですが、やっぱりないと大変です。と、淡々と終わってしまいますが(笑)。外は、涼しくて気持ちよい夜でした。寝やすい夜ですね。最後の曲はかぐや姫かな。「僕の胸でおやすみ」。 美也子も満足げに寝ているようです。
暑いですね。と書いて、お暑うございます。という言い方もあるなと思いました。お暑うございます、は敬語なのかな。と、またごちゃごちゃ言い始めてますが(笑)。年をとると言葉にいろいろ引っかかるんですよ。でも、最近の若い者は、というところまでは言ってませんけどね。それを言っちゃあおしまいよ、という自制心も働いているのかもしれません。まあ、単なる見栄っ張りという言い方も出来ますが(笑)。
そうそう、以前、コメントを残していってくれた方が、自分のことを”若造”と呼んでましたね。自分のような”若造”は、と言う言い方だったんですが、僕はあの時、”若造”を”若作り”と呼んでしまったんですよ。そうなんだ、この人も”若作り”なんだ、じゃあ、俺と同じじゃんと思ったんですが、よく考えたら”若造”でした。”若造”。これは最近使われているのかな。落語家でそういう人いそうですね、三遊亭若造とか、いないか、白髪になっても若造。出世しそうにないよね(笑)。
で、改めて暑いですね(笑)。蒸し暑くて、ぐったりですね。おまけに室内の冷房はきついし、気温差に弱い身としては、これから大変です。暑いの自体はそんなに苦ではないんですけど、温度差がだめです。皮下脂肪が少ないせいかな。関係ないかな。
ほんとに関係ない話ばっかりですみません(笑)。明日は土曜日です。「J-POPマガジン」のゲストはデリコです。久々に会いました。以前会ったのは、2年前のアルバムの時でした。あの時は、彼らも試行錯誤のピークにいたようで、バンドを解散しようかと思ったという話も出てました。KUMIさんはネパールに逃避行で、NAOKIさんは酔っぱらいの日々という中で生まれたのが前作のアルバムでした。
でも、違いましたね。開放感、ふっきれたというのはこういうことを言うんだろうなと思う、快調な状態でした。そういう混迷をくぐり抜けた後という印象が如実にありました。デリコの音楽は、60年代70年代のロックの好きな人には無条件でフィットするものがあるんですよ。彼らと話してると、どっかの街のロック喫茶のオヤジ、みたいな気になってくるんで、そこはまた複雑な思いです(苦笑)。
明日の放送は野球の関係で、30分間延長、増刊号です。apbankの特集。来週15日からの三日間。15日は現地から電話を入れることになってるんで、その予告もかねてです。電話に、apbak事務局の女性が出てくれます。
夏が近づいてます。あれ、もう7月じゃんという感じです。今日、75年の「つま恋」関係者3人に取材をしました。7月8月が終われば、もう9月。「apbank」が終われば「氷室・GLAY」。そして大詰めの「つま恋」!。今年の夏もあっという間に過ぎてしまいそうです、って。まだ梅雨だよね(笑)。みなさんの夏はどうなりそうですか。
そんなわけで、湿っぽい梅雨の夜の今日最後の曲。何だろうなあ。拓郎さんの「夏がみえれば」かな。1985年、二回目の「つま恋」を前にしたアルバム「俺が愛した馬鹿」の中の曲です。彼の40代最後のアルバムでした。GLAYの「あの夏から一番遠い夏」かな。
「あの夏」、ありますよね。誰にでも。皆さんにとって、今年の夏がそんな記念すべき夏になりますように。僕にとっては、そういう夏になりそうです。でも、そこから「遠く」はなりたくないですけど。やっぱりビーチボーイズだ。「エンドレスサマー」。これだ。いくつになってもね。 じゃ、明日。