最近、長い文章を書く機会が少なくなってましたからね。毎週書いている共同通信の「90年代ノート」は1000字弱。400字詰め原稿用紙だと15枚。字数で6000字はやっぱりかなり長いです。でも何とか一日で書きました。喫茶店三軒はしごです。
何を書いていたかというと「ユリイカ」という雑誌の「松本隆55周年特集」。発売は9月だそうで、以前の雑誌だと随分早い締め切りですね、になるのですが、今は印刷屋さんの数も少なくなって稼働力も小さい。雑誌は後回しになるんだそうです。
時代が変わった、そう思うことの連続ですけど、仕方ない。雑誌が存続しているだけでも喜ばないといけない。「ユリイカ」は、創刊から数えると70年近い由緒ある文芸批評誌でかなり敷居の高い本だと思ってました。
そういう雑誌ですからね。寄稿される人たちも作家とか詩人という人たちが多いでしょうから、僕の出番はないと思いますとお話ししたのですが逆にそういう業界にいる人がいないといけないかなと思ってお受けしました。
テーマは「サブカルと松本隆」。それなら書けるかなと思ったのですが、あれだけ作品の数の多い人ですからね。考えるとどうにもならなくなるので勢いで書くしかない。何とか一日で終えました。喫茶店三軒回りましたけど(笑)。
6月にTBSラヂオの彼の番組「風街ラヂオ」に誘われた時にサブカルについて話をしたので、それが入口になりました。あの頃のサブスクと彼がそこからどう壁を壊していったのかが少しでも辿れるようになっていればいいなと思います。
松本さんが書いた最新作は何と氷川きよしさんの「白睡蓮」。作詞はGLAYのTAKUROさん。アレンジが亀田誠治さん。松本さんにとっては氷川さんもTAKUROさんも初めて。これまでの氷川さんのイメージとはかなり違います。
テーマは「来世」。松本さんが90年代にクラシックの曲に書いた詞には「死」を扱ったものはありましたけど、ポップスでは中森明菜さんの「二人静ー天河殺人事件」くらいじゃないでしょうか。あれは映画がありましたからね。
同じようにサブカルで始まった同世代がどんどん天国に行ってしまう。松本さんにはそういう世代にとって「幸せな最後」「最後の愛の形」というのはどういうものかをいつか書いて欲しいなと思っていたのですが、そういう曲に思えました。
一気に書いたのでかなり荒っぽい原稿ではありますが、一日に6000字を賭けたのはちょっぴり自信になりました。まだやれるじゃないか、とは思いませんが(笑)。この暑さにはどんどん自信がなくなっていきます。
一昨日行くつもりだった小田さんは、その前の日の40度が応えてしまって結局だめでした。すぐに消してしまったのでお読み下さった方は少ないと思いますが、火曜日に「明日行けるか」とか面白おかしく書いた自分が恥ずかしかったです。
昨日、今日は割と過ごしやすかったですが、まだこの先に「暑苦」が待っているでしょう。何とかやり過ごしましょうね。というわけで氷川さん「白睡蓮」を。じゃ、お休みなさい。
FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」の8月後半の特集。今年メジャーデビュー35周年のHEAT WAVE。8月6日に1995年のアルバム「1995」の30周年アナログ二枚組が発売になります。一週目はあのアルバムの特集です。
ゲストは二週ともヴォーカル、ギター、作詞作曲の山口洋さん。お会いするのはほんとに久しぶり。最後に取材したのがいつかはかなり曖昧なんですが、当時はアルバムのリリース原稿を書いたりしてました。
でも、あまり売れなかった。エピックソニーから5枚のアルバムを出してポリドールに移籍。2000年代に入ってからは全くインデイーズで活動、今もそういう形を貫いていて、今年はソロツアーで全国をバイクで一人で回ってました。
メジャーなレコード会社も事務所もなくコンタクトを取るのも彼の個人ブログに書き込むことで連絡が取れました。毎日エッセイのような日記のブログなんです。バイクの旅の様子は臨場感に溢れていて読みでがありました。
彼に改めて連絡を取りたい、話を聞きたいと思ったのは「1995」が素晴らしかったからですね。当時聞いた時よりもはるかに重みもリアリテイも説得力もあった。彼が日本の状況になじめずに世界を旅していて思ったことが綴られれます。
アルバムの中に「満月の夕べ」がアルバムバージョンで入ってます。95年1月17日に起きた阪神淡路大震災の時のことをソウルフラワーユニオンの中川敬さんと2人で書いてる。同じ曲を違うそれぞれの歌詞でそれぞれにアレンジで歌う稀有な共作です。
中川さんの方は被災地を連日回る中での情景が当事者として歌っている。山口さんの方は、少し距離を置いて見ているしかない人の悲しみや祈りを込めている。関東の僕にはHEAT WAVE版の方に胸を打たれました。
そもそもは共同通信の「90年代ノート」の95年で「満月の夕」を書こうと思って聴き直して全曲の素晴らしさを再認識させられました。でも、手元になくてジャケット写真を借りようとエピックに連絡して30周年盤が出ると知りました。
95年は地下鉄サリン事件があったりした年。戦後50年でしたからね。アルバムの中に「棘~the song of HIROSIMA」という曲もある。広島にことを政治的なスローガンでなく「言葉にならない」感情を歌った貴重な曲です。
アルバムの30周年は戦後80年でもあり広島被爆80年でもある。あの歌がどういう時に書かれたのかも丁寧に語ってくれました。30周年記念アナログ盤の発売は明後日、8月6日です。21、22日にはDUO MUSIC EXCHANGEで記念ライブがあります。
でも、当時「1995」はオリコンの100位にも入らなかったと言ってました。「売れること」や「流行」の虚しさ。僕らも含めメデイアや業界がいかに上滑りで薄っぺらいものなのかを思い知らされます。
そういう「下世話」と縁を切って地道に健やかに活動している人たちとどう関われるか。色々考えさせられる、そして励まされる時間でした。オンエアは8月18日と25日です。というわけで、HEAT WAVE「棘~the song of HIROSHIMA」を。じゃ、お休みなさい。
この間収録したFM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」に続いてNACK5「J-POP TALKIN」もPANTAKEIICHI ORGANIZATIONのアルバム「P.K.O」の紹介。でも、こちらは慶一さんお一人がゲストです。
FM COCOLOの方は慶一さんとエグゼクティブ・プロデユ―サーの田原章雄さんのお二人がゲスト。収録の仕方もあちらはその場で曲も聴きながら生放送のように進行するというやり方で進行台本も自分で作ります。
そうしないと生放送のように時間を意識しながら話を聞いて行くという流れにしにくい。曲も決まってますし、あまり脱線すると時間内で収まらない。増長なところを編集するということでは済まなくなる。生放送と同じです。
NACK5は、その対極。台本も何もないんです。頭の中でイメージした流れだけ。最初と最後の話を想定しながらその場のやりとりで対応する。相槌ひとつで話が変わったり飛躍したりという面白さもあります。
どちらもラジオの面白さなので比較はできませんけど、同じ話題でも違う流れで出来たり微妙に表現が違ったりする。しかもCOCOLOの方は慶一さんとエグゼグテイブ・プロデユサーの田原章雄さんと二人でしたからね。
ただ、同じアルバムで両方の番組で扱うのはめったにないです。NACK5の方現役のアーテイストが対象でCOCOLOは「LEGEND」の関係者が多かったりします。今回はそういうことよりもあのアルバムのために出来ることは全部やりたかった。
このアルバムを知って欲しい、このストーリーを噛みしめて欲しい。この人の話を紹介したい。PANTAさんと慶一さんはそういう人です。何もできないけど、何か力になれたらということでこういう形になりました。
「遺作」と銘打たれたアルバムは少なくないですけど、ここまで生々しい状況が反映されたアルバムは初めてでした。詞や曲の完成度だけでなく、こういう中で作られたということが全てでしょう。
慶一さんは生死の境にいるPANTAさんの脳内のオデッセイ、つまり旅だと思って聞いて頂けるとと言ってました。NACK5のオンエアは13日と20日、深夜0時から30分です。というわけで曲です。アルバム最後の曲「不思議な愛の物語」を。じゃまたね、というPANTAさんの声で終わってます。じゃ、お休みなさい。
2023年7月になくなったPANTAさんが息を引き取る寸前まで慶一さんと詞のやりとりをしていた遺作がP.K.Oのアルバム「P.K.O」でした。ユニットの正式名称はPANTA KEIICHI ORGANIZATION。何と初のアルバムです。
PANTAさんは1950年、慶一さんは1951年。学年は二つ違いかな。1969年デビューの頭脳警察、71年にデビューしたのは慶一さんのはちみつぱい。片や過激派ロックバンド、片やはっぴいえんどの流れを組む東京のフォークロックバンド。
一時は反目しあっていたこともある。でも、慶一さんが日本語の音楽に目覚めさせられたのが頭脳警察だったそうです。それが79年のPANTA&HALのプロデユースで出会ったら5分で意気投合した、と慶一さんが言ってました。
ともかく音楽の嗜好が近かった。打てば響く。お互いがやりたいことが一を聞けば十分かる、みたいな気の合い方だったそうです。パブリックイメージとの狭間でのPANTAさんの葛藤を誰よりも理解していたのが慶一さんでしょう。
その後、P.K.Oになったのは93年。ツアーのためだったので二枚組ライブアルバムがあるだけ。そもそもは、2021年に余命一年宣告を受けたPANTAさんが抗がん剤治療を終えた22年の春に慶一さんと会って食事した時に「やろうよ」になった。
お互いのやり残していたことだったんでしょう。制作が始まって、PANTAさんがなくなった後も慶一さんが制作を続けてようやく完成したというアルバム。FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」はそのアルバムを二週にわけて全曲紹介します。
ゲストは慶一さんとエグゼクテイブ・プロデユサーの田原章雄さん。田原さんは頭脳警察の「東京オオカミ」が発売された時も残されたメンバーと一緒に出て頂きましたが、PANTAさんの身辺の一切を取り仕切ったマネージャーでもあります。
今回のアルバムはメジャーなレコード会社ではなくて「マーラーズ・パーラー」とおいうレーベル。社長も田原さん。プライベートレーベル。製作費がかかり過ぎてメジャーがお手上げになったという説もあります。
どういう状態で制作が進んでいったのか。歌詞カードにPANTAさんと慶一さん、田原さんのメールやラインのやりとりが載ってました。その様子に胸を打たれました。歌詞の書き直しや曲への意見が見て取れます。
PANTAさんは絶対安静中ですけど、という前置きで田原さんが書いたものとか口述で代筆したものとか。集中治療室の中で浮かんだと思えるアイデアとかが何事ももなかったかのような口調で書かれている。
時折、冗談や駄洒落があったり、危篤というような深刻さが一切ない。慶一さんは「余命1年」について知らなかったと言ってました。伝えなかったんでしょう。アルバムは一曲を除いて全部PANTAさんが詞を書いて慶一さんが曲をつけてる。
ガンが再発する前に録った曲はPANTAさんも歌ってるんですが、そういう状態になってから残った曲は慶一さんが歌ってる。全曲について、その時の様子や心の動きや葛藤も含めて丁寧に話して頂きました。
PANTAさんの詞が今までに聞いたことがないほどしみじみとして優しいんです。慶一さんの曲がそうさせたんでしょうけど、でも、二人の心の通い合いが伝わってくる。詞と曲を通した二人の「愛の証し」のようなアルバムに思えました。
PANTAさんがどういう表現者だったのか。話を聞けば聞くほど頭脳警察の過激さだけでは語れない知識人、教養人だったと思わせてくれる二週間。放送は8月4日と11日です。というわけでアルバムの一曲目「エルザ」を。
歴代のギタリストが勢ぞろいした格調高いギターロック。8分越えの大作。エリザベス女王がモチーフだったそうです。じゃ、お休みなさい。
闘病ということで表舞台から名前が消えて一年あまり。時々、どうされてるのかなあと思ったりしてましたが、なくなってしまいましたね。先週の土曜日、元「シンプジャーナル」の編集長、大越正実さんを偲ぶ会が行われたばかりでした。
今年は元「ワッツイン」の編集長でソニーマガジンスの社長もつとめた長谷弘一さんもなくなりました。みんないなくなってしまうなあと思わされる中、ついに渋谷さんまでこの世を去ってしまいました。
僕はロッキングオンには書いたことがありませんしコンサート会場で顔を合わせることと番組のゲストで来て頂いたことがあるくらいですけど、音楽ジャーナリズム、音楽ビジネス、特にコンサート面でも含めて史上最大の巨星と言っていいでしょう。
年は僕の方が上ですけど、シンパシーがあったのは、彼が「ロッキング・オン」を投稿誌として始めたことでしょうね。言ってみればロックファンのミニコミ誌みたいなものでした。僕も「新宿プレイマップ」というタウン誌が最初でしたから。
でも、その後の活躍はご承知のとおり。洋楽のファン雑誌が邦楽を手掛けるようになって他の音楽誌とは違うジャーナリズムの手法を取り入れていた。今はどうか知りませんが、ロッキングオンは原稿チェックさせなかったですからね。
インタビュアーとしてもDJとしても自分のスタイルを確立していた。その一方で出版社の経営者としても才覚を発揮していた。ジャーナリステイックな筋の通し方とビジネスマンとしての成功を両立させた唯一の人でしょう。
何と言ってもイベントですよね。雑誌とイベントを連動させた経営はすごいなあとしか言いようがなかったです。まあ、「渋谷天皇」と揶揄されたりもしましたけど、そういう中傷はつきものでしょう。
音楽ジャーナリズムと音楽ビジネスを会社のビジネスモデルとして作り上げた。そのことだけでも銅像が建っていいくらいじゃないでしょうか。彼がいなくなっても雑誌もイベントは続いてます。
それは素晴らしいことでしょうし、彼の功績の最たるものでしょうが、人の生き死にという意味での無常観みたいなものは感じざるをえません。ああいう人でもいつかいなくなる日が来る。虚しさは禁じえません。
浜田さんと佐野さんのコンサートでは席が隣になることが多かったんです。最後に言葉を交わしたのは、いつかなあ。2022年の浜田さんの武道館だったかもしれません。夏フェス来ないとだめですよ、とカツを入れられた記憶があります。
その時に驚かされたのは夏のフェスの時、一週間前から現場にはりついて照明のやぐらの位置や角度まで自分でチェックしてると言われてたんですね。そこまでやってるとは思ってませんでした。あのイベントに人生を賭けてるんだと思いました。
ああいう人はもう出てこないでしょうね。今年の5月の「MUSIC AWARDS JAPAN2025」の感想をお聞きしたかったです。心からご冥福をお祈りします。じゃ、お休みなさい。