すごい名前でしょう。暴動のクラブですからね。部活だったりしたらどういうクラブを想像されますか。去年の6月にインデイーズでデビューしてあちこちで話題になってる注目のロックンロールバンド、4人組です。
場所は恵比寿のリキッドルーム。久々でした。コロナ以後は初めてじゃないでしょうか。ライブハウスは密集度が高いし基本はスタンデイングですからね。コロナが明けても縁遠くなっていた。幸いの椅子席。助かりました。まさにシルバーシート(笑)。
何で見に行ったかというと、評判だったから。70年代の色がギラギラしてるバンドなんです。で、オリジナルの他に当時の曲もカバーしてる。その中に浜田さんの「あばずれセブテイ―ン」があったんですよ。え、そんな曲もやってるの、という感じでした。
長髪にパンタロン。基本が原色。グラムロックをアンダーグラウンドにしたみたいな空気感。ドキャッチ―なギターのリフとドラムとベースのでっかい音。ローリングストーンズというよりストーンズに影響された70年代の日本のロックバンドですね。
連想したのが京都の伝説のバンド、村八分。奔放な発言やライブを突然キャンセルしたりという過激な行動で東京ではあまり見る機会がなくて僕も結局見ず仕舞いになってしまったんですが、なぜか近しいものを感じました。
と言って暴動クラブのメンバーはまだ20代になったばかり。東京の有名私立大学の学生。家出や喧嘩やドラッグなどとは無縁の若者たちなんです。ご両親が当時の音楽をお好きだったんでしょう。ボーカルの釘屋さんのインタビューにもそうありました。
ご両親が浜田さんを聴いていたといううれしい例は少なくないですけど「あばずれセブンテイーン」をカバーした人は多くないですよ。甲斐よしひろさんと暴動クラブくらいかもしれません。大物になる証しだ(笑)。
ライブはMCなしで90分、ぶっとばしてました。まだワンマンの経験が多くないんでしょう。自分たちの演奏で精一杯という感じは否めなかったですけど、客席の空気を受け止めたりライブのぺースみたいなものが掴めるようになると変わりますね。
俗に言う大化けというやつですね。この日もRCとか、ミカバンドなどのカバーとオリジナルを両方やってましたが、「あばずれセブンテイーン」はやらなかったんですね。え、やらないんだ、と思ったら客出しのBGMで流れてました。
思い切りブルースになっててしぶくてカッコよかったです。ということで、たまにはライブの話を書かないと自分が何をやってる人か分からなくなる(笑)。今年の連休は思うところあってライブ控えめなんです。でも、見て良かったです。
というわけで暴動クラブ「あばずれセブンテイーン」を。さすがに客席に白髪の人は見当たりませんでした。関係者席に数人(笑)。じゃ、お休みなさい。
とは言うものの、ですね。今日は20日、一週間以上空いたことになりますね。ずっと更新がない、つまり、便りがない。それがいい便りになったのかどうかは判断しにくいですが、何とも頼りないことは間違いないという感じでしょうか。
何を書こうとしてるんでしょう(笑)。毎日、書こうとは思うんです、今日も書かなかったな、と思いながら寝てしまう。この辺が境目でしょうね。ちょっと前だったらやっぱり書いてから寝ようとなるのに、いや、早く寝ようと思ってしまう。
早いと言っても12時くらいですけどね。もっと早く寝ないといけないかなとか、どんどん後ろ向きになってる。まずいわけで、これは何とも頼りない。仕事は何とかこなしてます。先週は久々に大変でした。
火曜日にNACK5「J-POP TALKIN’」のいきものがかりのインタビュー収録があって、水曜日に某機内放送のGLAY特集の台本を書いて、木曜日にFM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」の5月前半二週の収録をして、共同通信の「90年代ノート」の原稿も書いたのか。
以前だったらそこにライブが加わるわけですが、これ以上は無理かなあという一週間でありました。「J-POP LEGEND CAFE」の三か月ぶち抜き「フォーライフ50周年特集」の5月は杏里さんと今井美樹さん。
杏里さんはご本人が来てくださいました。お会いするのは10年以上ぶり。フォーライフ時代、僕は小室さん、拓郎さん、陽水さん、泉谷さんという創立4人衆寄りでしたからそんなに接点があったわけでもないんで、色々、おさらいしてました。
杏里さん、今や、City Popのクイーンですからね。海外から日本にコンサートを見に来るという人気、その頃の話だけじゃなく、デビュー当時に始まってフォーライフ時代20年の話を聞いてました。
なんせ一番多くアルバムを出して一番多く売った人ですからね。フォーライフの屋台骨を支えた人。準備に時間もかかりましたけど、知らなかったことが沢山ありました。当時より圧倒的に情報量が多い。何を見ていたんだろうと思う事も多いです。
というようなことがあった一週間でしたが、何と言ってもお天気ですよね。僕だけじゃないでしょうけど、身体がついていかない。この先が思いやられるという感じです。まあ、行けるところまでね。その辺は淡々としてきてます。
拓郎さん流に言えば「がんばらないけどいいでしょう」かな。と言って頑張らないとついていけない。頑張らないけどいいでしょう、とかいいながらささやかに頑張る。でも、思ったような結果は出せない。それもまた受け入れてゆく。
何を書いてるんだ(笑)。お時間とらせてしまってすみません。そのうち暇になるでしょうから、嫌でも毎日読んで頂くようになるかもしれません(笑)。というわけで「ガンバラナイけどいいでしょう」を。じゃ、お休みなさい。
FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」、4月後半二週、陽水さんの特集の収録gが無事終わりました。当時の制作担当、平田さんと南さんに色々伺いました。お二人とも当初は僕らなんかが肩っていいんでしょうか、みたいな空気でしたけど楽しい時間になりました。
お二人とも今は違うレコード会社だったりフリーのエンジニアで仕事をされていて二人で話すのもほんとに久々ということで同窓会気分もあるくつろいだ、でも、当事者じゃなければ語れないことの連続でした。
お二人は入社が86年。実際に制作で関わるのは80年代の終わりから90年代。陽水さんの話の中では比較的薄い時期といっていいかもしれません。というか、僕の知り合いの年齢が70年代の陽水さんで育った人が多いということなんでしょう。
今回のために改めてその頃のアルバムを聴き直していて思ったことも色々ありました。たとえば87年のアルバム「NEGATIVE」とかね。「9.5カラット」をミリオンにしたり二度目のピークを迎えた後のアルバムです。
ポップなメロデイーメーカーという新しいイメージが出来上がっていた矢先のアルバムのジャケットがインデイアンの老人、それもメイクも衣装も凝りに凝ったもので誰だか分からない。ジャケットが不評で売れなかったアルバムの一つです。
一つ、というのは前例があった。83年の「バレリーナ」というメランコリーとファンタジーが一緒になったようなアルバムなのにジャケットはバレリーナがV字開脚してる。あのアルバム味セールスは不振に終わってしまった。
陽水さんは自分で「ジャケットが悪かったんだろうね」と苦笑いしてたことがありました。その後が90年の「ハンサムボーイ」ですからね。満面の笑顔の陽水さんを初めて見たという人も多かったでしょう。
あの中の「少年時代」は「氷の世界」「9,5カラット」に次ぐ三度目のミリオンセラー。自分の中の意外性を楽しんでいる。売れて神格化されると自分でそれを壊そうとする。奥田民生さんと組んだ井上陽水奥田民生もそうでした。
93年の「UNDER THE SUN」の後が一位になった後でしたからね。脱力系のゆるーい二人が一緒になった。そんなこんなの90年代の現場の証言です。とりあえずのご報告。これが井上陽水という人なんだろうなと思ってお聞きください。
でも、久々の陽水さん。「LEGEND FORUM」時代の2019年に本人も出て頂いて特集した時以来。語り甲斐のあるアーテイストだなあと再認識しました。というわけで、二週間の曲の中から「手引きのようなもの」を。そんな番組になればと思います。じゃ、お休みなさい。
4月から3カ月連続のぶち抜き特集「フォーライフレコード50周年」。4月の後半は井上陽水さんの特集。フォーライフ時代の作品を辿ります。76年の「招待状のないショー」から2010年のアルバム「魔力」までですね。
と言っても二週間なので紹介できるのは16曲くらい。ですが、時代によって作風が変わってゆく様は辿れるのではないかと思ってます。もちろん本人が出演されるわけではなくて当時の制作担当の2名が登場。思い出の曲を選んでくださいます。
ただ、残念なのは、80年代前半の「あやしい夜をまって」「ライオンとペリカン」「バレリーナ」の三部作を始め、陽水さんが変わっていった時期のデイレクターだった金子章平さんがなくなってるんですね。
制作担当の平田さんと南さんはともに86年入社。当時のことは間接的な話になるわけですが、それでも貴重な話になることは間違いないです。70年代、80年代、2000年代と三つの時代でミリオンセラーを持つ巨人ならではの軌跡が伝わればと思ってます。
この間も書きましたけど、拓郎さんも陽水さんも離れて、しかも現役の活動から退いて沈黙されていることもあって語られなくなってる。ここ数年のシテイポップブームもあって妙な空白になってるようにも思えます。
メデイアにももはやあの時代を知っている人がいなくなってますからね。僕らの番組くらいしかやらないかな、という気分です。どんどん細分化されて色んな情報が溢れてゆく中で、僕らのやるべきことはそういうことかなと思ったり。
そう、先日もひとり、古くから知っている知人がなくなりました。FM TOKYOの名物プロデユーサー、延江浩さん。民間放送連盟賞などの常連。今も「村上RADIO」などを作ってます。作家やエッセイストとしても活動してます。
67歳。僕より10歳以上若い。彼がFM TOKYOに入社したころ番組で一緒になって「昔のラジオを教えてあげようか」みたいな冗談を言ってました。早いよなあ、という意味でかなりヘビーな気分になりました。
文化放送、FM TOKYO、NACK5、FM COCOLO、僕が関わってきた放送局の近しい人たちがほとんどなくなってしまいました。こういう取り残され方は想像もしてなかったです。というわけで、曲です。陽水さん、「5月の別れ」を。まだ4月ですけど。じゃ、お休みなさい。
僕じゃないですけど(笑)。先日の「ひるおび」をたまたま入っていたお蕎麦屋さんのテレビで見たという書き込みがあったんです。ありがとうございました。で、妙に幸せな気分になったんです。これは何だろうなと思いながら書いてます。
お蕎麦屋さんのテレビというのが妙にリアルだったんでしょう。僕らも普段見ることのない番組をそういうお店で見ることはしょっちゅうですけど、自分が見られる側にまわることはめったにないでしょうし。それだけでやって良かったなという感じです。
だって、今、テレビつけてないお店も多いでしょう。ラジオをつけてないタクシーも多いです。いわゆる「街中メデイア」みたいなものがどんどん衰退してるようにも見えます。一昔前の「街鳴り」という言葉は死語でしょう。
年末になると街中でユーミンが流れるとか、クリスマスになると達郎さんの声があちこちから聞こえてくるとか。さすがにクリスマスソングは今も聴けるでしょうど。そういう流れっ放しの街中メデイアですからね。御覧になった方も驚かれたと思います。
全然、話が変わるんですが、ドラマの中に出てくるテレビというと、ニュース番組で犯人の顔が写るというシーンがあります。そういう映画を見たんです。1974年の企業爆破事件の犯人で指名手配されていた桐島聡を描いた映画「逃走」ですね。
全国指名手配されたまま48年間名前を変えて潜伏して、癌で死の間際に病院で自分から名乗って死んでいったという人の生涯。自分ではそういうつもりじゃなかったのにリーダーが爆薬の配合を間違えて悲惨な大事件になってしまった。
偶然そうなってしまった十字架を背負った逃げ続ける一生。その中で何を支えに生きてきたのかを描き出す。で、彼の指名手配写真がしょっちゅうテレビで写される。見ていて自分も追われているような気分になってくる映画でした。
こんなことを書こうと思ったわけじゃないです(笑)。でも、人の一生なんで何と紙一重でどこで歯車が狂うか分からないわけで、もし、そうなったらどうするのかと考えさせる、なかなかの映画でした。
まあ、中国に行っていきなりスパイ容疑で捕まった商社マンもいますから何が降りかかってくるかわかりません、って「ひるおび」とは何の比較にならない(笑)。書き込みありがとうございました。
曲ですね。斉藤和義さん「僕の見たビートルズはテレビの中」。この曲のことが書きたかったんだと思います。どこで話が逸れるかわからない、そんな例になりました(笑)。じゃ、お休みなさい。