何が届くのか。出前のラーメンでも母の日のプレゼントでもありません。以前、書いた台湾清華大学に送るCD。引っ越し用の段ボールで24箱。枚数だと4500枚~から5000枚くらい。なかなか時間が取れないままで結局、先月の終わりになってしまいました。船便で一か月くらいと言ってましたから、そろそろかなあという感じです。
すでに送ってあった1万8千枚はこれまでも関わることのなかったり、もう会うこともないだろうなという人たちが多かったんですが、今回は違います。今も取材したりライブを見たりしてして近しい人たちが多い。でも、このタイミングしかないということもあって思い切りました。
力をお借りしているのがJMCE、日本音楽産業・文化振興財団という団体なんですね。理事長がフォーライフレコードの社長、後藤豊さん。彼が助けてくれなかったら実現してなかった試みですからね。組織ですから年度、みたいな区切りがあって、年度内に、ということで今になりました。
もう何度も書いてますけど、台湾は1949年から1987年まで戒厳令が敷かれていて70年代、80年代の日本の音楽が全く知られてない。拓郎さん、陽水さん、みゆきさん、ユーミン、浜田さんとか、その後のドラマ主題歌みたいな曲は知られていてもCDは手には入らない。
そのことに驚いて、自分の持っているCDが少しは役に立てるかなというところから始まってるんで、今回はそういう人たちが多いんでようやく着地した気がします。でも、仕事場にほとんどCDがないというのも初めてですからね。ライブ抜き連休というのもそういう事情もあります。
どんな風に聴かれるんだろうな、と思いながらのご報告。この後にこんな感じだったんですよということで、段ボールの写真をアップしようと思ってるのですが、うまく出来るかどうか。今年も日本人アーテイスト、バンドの台湾でのコンサートはたくさん行われてます。そういう人たちが手に取ってくれるといいな、と。
台湾は配信の普及が早かったのでCD文化が根付かないで終わってしまったんですね。日本は対照的に世界で一番CDが普及していた国ですからね。これが日本の音楽の財産なんだと思ってもらえると嬉しいと思ってます。台湾清華大学は台北から新幹線で30分くらい。新竹というところにあります。
秋ごろまでには整理もされるでしょうから、その頃に伺おうと思ってるのですが、もしご興味あれば。図書館の担当の方が丁寧に案内してくれます。というわけで。曲ですね。ユーミンの「青いエアメイル」か拓郎さんの「春を待つ手紙」を。台湾の人に知って欲しい。じゃ、お休みなさい。
帰ってきてたまたま夕刊のテレビ番組を見て気がつきました。King Gnuの12曲ライブスペシャル。ちょうど始まったところみたいで1時間以上丸々見てしまいました。最初の説明を見られなかったんでどこの会場だったかは分かりませんでしたけど、局のスタジオな感じじゃなかったですね。
平日のゴールデンタイムですよ。CMも一切入らずにライブだけ。演奏している側もテレビの番組という意識は全くないように思える尖がったライブを展開してました。去年の春に見て以来だから丸々一年ぶりか。まさかテレビで見るとは思いませんでした。
彼らは今年、ライブハウスツアーをやってたんですよね。ファンクラブツアーだったのかな。それでなくてもスタンデイングはもう無理かなという感じですけど、そのテンションが伝わってきました。
テレビも転機なんでしょうね。歌番組が低調と言われてもう何年も経ちますけど、従来の形を突破しようとしてる気がしましたよ。若い人たちのテレビ離れも著しいでしょうし。若い音楽ファンは歌番組とか見ないでしょうからね。
でも、あれだけのライブはYou Tubeでもサブスクでも味わえないでしょうし画面も大きくないとつまらない。テレビだから楽しめるライブ、それもおざなりじゃなくてリアルなライブ会場でも味わえない臨場感を作り出す。彼らを知らないお年寄りは見なくてもいい。
TBSが平日の夜に19時半からやっている「報道1930」は解説者も切り口も腰が据わっていて見ごたえがありますけど、音楽に興味のない人はそっちを見てくださいということなんでしょう。一昔前とは逆ですよね。
以前の地上波のゴールデンは家族で楽しめるバラエテイが中心で音楽はBSという分け方でした。バラエテイも今はコンプライアンスが厳しくなってこじんまりとして面白くないし芸人さんたちにも勢いがない。フジテレビ問題の後遺症かもしれませんが。でも、音楽番組の新しい形が生まれるのは大歓迎。
Tick Tockで流行る曲はイントロも間奏もない単に瞬間的な飛びつきの良さだけ、みたいな曲も多いですし。ライブで盛り上がる、ライブだから良さが分かるという音楽を伝えることをテレビがやってくれる。そんな期待も感じさせました。
とは言え数字が取れなければすぐに辞めるのは地上波の宿命でしょうけど、どうなりますか。というわけで、ライブなしの連休。こちらもどうなりますか。曲ですね。King Gnuの「飛行艇」。うちのテレビを十分に揺らしてました。じゃ、お休みなさい。
すごい名前でしょう。暴動のクラブですからね。部活だったりしたらどういうクラブを想像されますか。去年の6月にインデイーズでデビューしてあちこちで話題になってる注目のロックンロールバンド、4人組です。
場所は恵比寿のリキッドルーム。久々でした。コロナ以後は初めてじゃないでしょうか。ライブハウスは密集度が高いし基本はスタンデイングですからね。コロナが明けても縁遠くなっていた。幸いの椅子席。助かりました。まさにシルバーシート(笑)。
何で見に行ったかというと、評判だったから。70年代の色がギラギラしてるバンドなんです。で、オリジナルの他に当時の曲もカバーしてる。その中に浜田さんの「あばずれセブテイ―ン」があったんですよ。え、そんな曲もやってるの、という感じでした。
長髪にパンタロン。基本が原色。グラムロックをアンダーグラウンドにしたみたいな空気感。ドキャッチ―なギターのリフとドラムとベースのでっかい音。ローリングストーンズというよりストーンズに影響された70年代の日本のロックバンドですね。
連想したのが京都の伝説のバンド、村八分。奔放な発言やライブを突然キャンセルしたりという過激な行動で東京ではあまり見る機会がなくて僕も結局見ず仕舞いになってしまったんですが、なぜか近しいものを感じました。
と言って暴動クラブのメンバーはまだ20代になったばかり。東京の有名私立大学の学生。家出や喧嘩やドラッグなどとは無縁の若者たちなんです。ご両親が当時の音楽をお好きだったんでしょう。ボーカルの釘屋さんのインタビューにもそうありました。
ご両親が浜田さんを聴いていたといううれしい例は少なくないですけど「あばずれセブンテイーン」をカバーした人は多くないですよ。甲斐よしひろさんと暴動クラブくらいかもしれません。大物になる証しだ(笑)。
ライブはMCなしで90分、ぶっとばしてました。まだワンマンの経験が多くないんでしょう。自分たちの演奏で精一杯という感じは否めなかったですけど、客席の空気を受け止めたりライブのぺースみたいなものが掴めるようになると変わりますね。
俗に言う大化けというやつですね。この日もRCとか、ミカバンドなどのカバーとオリジナルを両方やってましたが、「あばずれセブンテイーン」はやらなかったんですね。え、やらないんだ、と思ったら客出しのBGMで流れてました。
思い切りブルースになっててしぶくてカッコよかったです。ということで、たまにはライブの話を書かないと自分が何をやってる人か分からなくなる(笑)。今年の連休は思うところあってライブ控えめなんです。でも、見て良かったです。
というわけで暴動クラブ「あばずれセブンテイーン」を。さすがに客席に白髪の人は見当たりませんでした。関係者席に数人(笑)。じゃ、お休みなさい。
とは言うものの、ですね。今日は20日、一週間以上空いたことになりますね。ずっと更新がない、つまり、便りがない。それがいい便りになったのかどうかは判断しにくいですが、何とも頼りないことは間違いないという感じでしょうか。
何を書こうとしてるんでしょう(笑)。毎日、書こうとは思うんです、今日も書かなかったな、と思いながら寝てしまう。この辺が境目でしょうね。ちょっと前だったらやっぱり書いてから寝ようとなるのに、いや、早く寝ようと思ってしまう。
早いと言っても12時くらいですけどね。もっと早く寝ないといけないかなとか、どんどん後ろ向きになってる。まずいわけで、これは何とも頼りない。仕事は何とかこなしてます。先週は久々に大変でした。
火曜日にNACK5「J-POP TALKIN’」のいきものがかりのインタビュー収録があって、水曜日に某機内放送のGLAY特集の台本を書いて、木曜日にFM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」の5月前半二週の収録をして、共同通信の「90年代ノート」の原稿も書いたのか。
以前だったらそこにライブが加わるわけですが、これ以上は無理かなあという一週間でありました。「J-POP LEGEND CAFE」の三か月ぶち抜き「フォーライフ50周年特集」の5月は杏里さんと今井美樹さん。
杏里さんはご本人が来てくださいました。お会いするのは10年以上ぶり。フォーライフ時代、僕は小室さん、拓郎さん、陽水さん、泉谷さんという創立4人衆寄りでしたからそんなに接点があったわけでもないんで、色々、おさらいしてました。
杏里さん、今や、City Popのクイーンですからね。海外から日本にコンサートを見に来るという人気、その頃の話だけじゃなく、デビュー当時に始まってフォーライフ時代20年の話を聞いてました。
なんせ一番多くアルバムを出して一番多く売った人ですからね。フォーライフの屋台骨を支えた人。準備に時間もかかりましたけど、知らなかったことが沢山ありました。当時より圧倒的に情報量が多い。何を見ていたんだろうと思う事も多いです。
というようなことがあった一週間でしたが、何と言ってもお天気ですよね。僕だけじゃないでしょうけど、身体がついていかない。この先が思いやられるという感じです。まあ、行けるところまでね。その辺は淡々としてきてます。
拓郎さん流に言えば「がんばらないけどいいでしょう」かな。と言って頑張らないとついていけない。頑張らないけどいいでしょう、とかいいながらささやかに頑張る。でも、思ったような結果は出せない。それもまた受け入れてゆく。
何を書いてるんだ(笑)。お時間とらせてしまってすみません。そのうち暇になるでしょうから、嫌でも毎日読んで頂くようになるかもしれません(笑)。というわけで「ガンバラナイけどいいでしょう」を。じゃ、お休みなさい。
FM COCOLO「J-POP LEGEND CAFE」、4月後半二週、陽水さんの特集の収録gが無事終わりました。当時の制作担当、平田さんと南さんに色々伺いました。お二人とも当初は僕らなんかが肩っていいんでしょうか、みたいな空気でしたけど楽しい時間になりました。
お二人とも今は違うレコード会社だったりフリーのエンジニアで仕事をされていて二人で話すのもほんとに久々ということで同窓会気分もあるくつろいだ、でも、当事者じゃなければ語れないことの連続でした。
お二人は入社が86年。実際に制作で関わるのは80年代の終わりから90年代。陽水さんの話の中では比較的薄い時期といっていいかもしれません。というか、僕の知り合いの年齢が70年代の陽水さんで育った人が多いということなんでしょう。
今回のために改めてその頃のアルバムを聴き直していて思ったことも色々ありました。たとえば87年のアルバム「NEGATIVE」とかね。「9.5カラット」をミリオンにしたり二度目のピークを迎えた後のアルバムです。
ポップなメロデイーメーカーという新しいイメージが出来上がっていた矢先のアルバムのジャケットがインデイアンの老人、それもメイクも衣装も凝りに凝ったもので誰だか分からない。ジャケットが不評で売れなかったアルバムの一つです。
一つ、というのは前例があった。83年の「バレリーナ」というメランコリーとファンタジーが一緒になったようなアルバムなのにジャケットはバレリーナがV字開脚してる。あのアルバム味セールスは不振に終わってしまった。
陽水さんは自分で「ジャケットが悪かったんだろうね」と苦笑いしてたことがありました。その後が90年の「ハンサムボーイ」ですからね。満面の笑顔の陽水さんを初めて見たという人も多かったでしょう。
あの中の「少年時代」は「氷の世界」「9,5カラット」に次ぐ三度目のミリオンセラー。自分の中の意外性を楽しんでいる。売れて神格化されると自分でそれを壊そうとする。奥田民生さんと組んだ井上陽水奥田民生もそうでした。
93年の「UNDER THE SUN」の後が一位になった後でしたからね。脱力系のゆるーい二人が一緒になった。そんなこんなの90年代の現場の証言です。とりあえずのご報告。これが井上陽水という人なんだろうなと思ってお聞きください。
でも、久々の陽水さん。「LEGEND FORUM」時代の2019年に本人も出て頂いて特集した時以来。語り甲斐のあるアーテイストだなあと再認識しました。というわけで、二週間の曲の中から「手引きのようなもの」を。そんな番組になればと思います。じゃ、お休みなさい。