いやあ、酔っ払ってますわ。ますわ。私、まーすーわって、あれは「待つわ」ですね、あみんだ。苦手だったんですよ。あの歌を聴くと「勝手に待ってろ」とか、つっけんどんにしたくなるタイプでありました。ま、へそ曲りだったんですね。
そんなことを書こうとしているわけではない(笑)。いくら酔っ払っていようとも、であります。最近、アルコールは控えめにしてたんですけど、今日は行ってしまいました。お通夜でしたからねえ。昔話をしながらピッチが上がるというヤツでしょうか。
いきなり実名で始めてしまいました。こういうブログでは実名はご法度だということを知りつつ、であります。だって、追悼するのに、イニシャルじゃ、書かれた方も浮かばれないでしょう。ちゃんと名前も仕事も書き残しておくことの方が、追悼になるんだと思います。
石川さんというのは、先日、お亡くなりになった文化放送のデイレクターです。今日、お通夜がありました。59才でありました。僕より少し若いです。70年代に「三ツ矢フォークメイツ」という番組があって、その時に僕はご一緒させてもらいました。
ただ、後にスポーツ番組に行かれて、部長までしていたのかな。でも、最近は、またデイレクターに戻って、主に団塊の世代向けの番組を作ってました。去年、岡林さんが復活して野音で35年ぶりかなライブをやりましたけど、その仕掛け人でした。
仕掛け人という言葉は適切じゃないですね。そういう山師的なところのないスポーツマンでした。僕が、去年「みんなCMソングを歌っていた」を出した時に、本当に喜んでくれて、文化放送の番組のゲストをいろいろ決めてくれた人でした。
「何か面白いことをやりましょう」が、晩年の口癖で、「団塊向けにはまだやれることが一杯あると思う」と、しきりに口にしてました。70年代当時に一緒に仕事をした期間はそんなに長くなかったんですけど、近年は、いろんな話をした一人です。ガンでした。
とは言っても、僕は、フリーランスですし、そんなにしょっちゅう顔を合わせるわけじゃないんで、話を聞いていたら、亡くなる二日前にも、局で編集をしていたそうなんですね。最後までラジオマンだったことになります。ラジオ全盛期のデイレクターだなあ、と泣きました。
「三ツ矢フォークメイツ」という番組は、小室等さんがしゃべっていたんですが、上田さんというのは、当時から、小室さんのマネージャーをしていた人ですね。彼がなくなったわけじゃないです。”(笑)”を入れようと思ってとどまりました。お通夜ですからね。
上田さんというのは、日本のフォーク史を本当に現場で見ている人なんですよ。金沢大学工学部卒ですからね。学生時代の71年に、金沢で六文銭と拓郎さんのコンサートを企画したというところから始まってます。小室さんとはそれ以前からの付き合いでした。
東京に出てきて、小室さんの事務所だった、六文銭ファクトリーをずっと仕切ってきて、今年、事務所を解散してフリーで仕事をしてます。まあ、良く知っているというか、覚えているというか。現場にいたんだから、当然とも言えますが、ずっと、一筋ですからね。
僕なんかは、外から見ていただけなのに、さも自分がそこにいたかのようなことを書いたりするんですが、彼は、本当に当事者でしたから。自分で何かを書き残してほしい一人であります。というようなこともありまして、アルコールが杉田二郎でした。なんじゃ、それ(笑)。
でもなあ、59才ですよ。早いよなあ。やっぱり死んじゃだめですよ。ふーっつ、無茶苦茶酔いが回ってきた。だめだこりゃ(笑)。おっとっと、という感じです。じゃ、今日の曲。岡林さんの「26番目の秋」。26才かあ。若かったんだねえ。
石川さんは60番目の秋を知らずに亡くなりました。またあ、俺のことなんか書かないでよ、と苦笑いしてそうです。合掌。おやすみなさい。