扇情的なタイトルかな。若干トリッキーな印象もなきにしもあらずですけどね。机の横の紙くずの中から出てきた月刊誌の五木寛之さんと重松清さんの対談を読んでいて、ふっと思ったことです。
でも、今時、机の横に紙くずが山になっている人というのも少ないかもしれない。オフィスのOA化でペーパーレスが当たり前になっているのに、前時代的だよな、と自分の机を見ていつも思います。今時、こんな机があるのかという感じですよ。一昔前のテレビドラマの雑誌編集部みたいな感じ。さすがに煙草を吸ったり、書きかけの原稿をくちゃくちゃにしたりというようなことはありませんけど、なぜか紙くずはなくなりません。
プリンターというのもあるしね。結局要らないものもプリントアウトして、そのままになっているというものも多いですし。資料は消えません。不滅です、というのはこういう時には使わないですよね、長嶋監督。あなたの巨人軍はどこに行ったんでしょう、これは昨日だ(笑)。
で、その退団ですよ、違う、対談だ。退団したのは桑田投手だ。五木さんは、”アンチエイジング”という言葉に非を唱えてました。自然じゃないというんですね。その中で「どう死ぬかというのはどう生きたかということの結論です」と発言してました。重松さんが「どう生きるか哲学はあってもどう死ぬかを書いたものは少ないですよね」と応じていました。
この間の団塊話じゃないですけど、どんなに世代としての塊であっても、死ぬときは一人なわけで、そこには世代は存在しないでしょう。でも、今の段階ブームは、まるで塊で死ねるような錯覚をさせる気がするんですよ。みんなで死ねば怖くない、的なね。昔、「死のう団」という集団があったそうですけど。
団塊団塊ってはしゃぎすぎだよなあ。月刊文春で名付け親の堺屋太一さんが寄稿してますね。きっと明日買うんですよ、悔しいけれど(笑)。何だっけ、団塊1000日の幸せかな。おいおい1000日しかないのかという感じです。団塊が幸せに生きられるのはそのくらいということなのかな、読んでないんで分かりませんが。
定年後、どう生きるかというより、どうやって死ぬか。そっちの方が問題だよなあと思ったりした、というそれだけのことであります、タイトルの割にあんまり中身がない(笑)。苦しまずに安楽に死ねると良いなと思います。
そう、五木さんも、それに近いことを言ってましたけど、「自決権」ということを言う人は出てくる気がします。自分の命なんだから好きに終わらさせてくれという意識的幕引き。そういうことを言いたがるのが団塊でしょう。お医者さんにとっては許し難いことかもしれませんけどね。ともあれ、定年後どう生きるかという議論は残間さんにお任せという感じです。
竜頭蛇尾でしたね(笑)。話しは違いますが日ハム、勝ちましたね。明日、どうなるでしょうか。明日、久々にGLAYのインタビューです。元気かな、逢うのが楽しみです。今日最後の曲。今週の「J-POPマガジン」のゲストです。イエモンの曲を。これはおばあちゃんがなくなった時の曲だそうですね。「人生の終わりに」。じゃ、お休みなさい。