見ましたか、ミュージックステーション。レッチリが出ていたんですけど、どっか妙じゃなかったですか。スタジオに来ていたファンの盛り上がり方を見ていて、ふっと20年前のことを思い出しました。
85年かな。ブルース・スプリングステイーンが来た時のことです。テレビには出なかったんですけど、当時、最も”旬”だったんでしょうね。代々木の国立第一競技場で何日間だったかな連続でライブがあったんですよ。あの時も、ものすごい盛り上がりでした。
でも、その時のことを、デイブ・マーシュという評論家が辛辣なことを書いてました。彼は「明日なき暴走」というスプリングステイーンの伝記を書いていて、ものすごく良い本なんですよ。僕にとっては、その本と、ハンターデイビスが書いた「ビートルズ」という本が永遠のライバルだと勝手に思っているという、そういう本を書いた人です。
で、彼が、「ボーン・イン・ザ・USA」の世界的なヒットも含めた「明日なき暴走」の改訂版を出したんですが、その中に日本のコンサートのことが書かれてました。つまり、日本のファンは、ブルースが何を歌っているかには関心がないのに盛り上がっている、というような、かなり冷ややかな内容だったんです。正確には忘れましたが。
僕も当時、スプリングステイーンは大好きでしたから、それを読んで、冷や水を浴びせられた気がしました。結局、問題は何を歌っているかなんではないかと、思いがけないところから思い知らされた気がして、浜田省吾さんのことをちゃんと書こうと思ったりした次第です。「浜田省吾ストーリー・陽の当たる場所」は、その僕なりの”ANSWER”だったわけです。
それを思い出したんですよ。確かにレッチリは素晴らしいロックバンドだし、新作アルバムは僕も発売日に買いました。で、歌詞カードを見てびっくりもしたんです。今日、テレビでやった曲も、歌詞の中身は、結構シリアスでしたよね。”オヤジは警官でおふくろはヒッピーだった”と言うんですよ。日本のバンドがあんなことを歌ったら絶対に売れないでしょうね。テロップで出た歌詞の中身と、スタジオの盛り上がりが妙な違和感になってました。
洋楽ファンは、歌詞の中身をどのくらい重視しているんだろうと思った次第です。単にビートで盛り上がっているだけだったら、20年前にデイブ・マーシュが指摘したのと何も変わってないかもしれないなあと。それで良いのかなあと。
僕は、日本で向こうのバンドのライブをあんまり見ません。それは、もし、これをニューヨークで見たら、もっと盛り上がっているだろうなと思ったりしてしまうんですね。そう思うと、どこかに距離感が出てしまいます。もっともストーンズみたいな、どこででも見たいという思い入れのある人たちは別ですが。レッチリのファンもそれと同じなのかな。だとしたら、僕の言ってるのは的外れということになりますが。
ライブの共有感というんでしょうか。日本のアーテイストのコンサートにはどんなに未熟なバンドでも、客席と言葉が共有されていて、音楽が聞いている人の生活にとけ込んでいる実感があるんですよ。
まあ、これもオヤジの繰り言なんでしょうけどね。たとえば、「こんなことも知らないで」と偉そうに言っているオヤジと同じ次元なのかなとも思いますが。僕も彼らのアルバムを聞くときは、ビートやノリやフレーズで聞いたりするんですけどね。だからあんまり人のことは言えないんですけど、でもやっぱりMステのレッチリはどこか妙でしたよ。アメリカのレッチリのファンはあの光景をどう思うのだろう。音楽が共有するものは何だろう。apbankフェスがあったせいもあるんでしょう。あのスタジオで盛り上がっていたレッチリファンは、彼らと何を共有しているんだろう。
まあ、そんなに堅苦しく考えない方が良いんでしょうし、昨日、レッチリが出てたよ、で済むのかもしれないんですが。でも、邦楽のCDが売れなかったりという話を聞くと、ふっとそういうことを考えてしまいます。と、一言、言ってみたくなった次第です。そんなわけで、明日は「J-POPマガジン」です。今日最後の曲。GLAYとヒムロックです、「ANSWER」。明日もかけますよ!じゃ、お休みなさい。