いきなり個人名ですよ、これはまずいかなあ。と言いつつ書いてますが(笑)。通称タムジン。僕と同じ年のカメラマン。拓郎さんを30年以上撮り続けてます。みゆきさんもかぐや姫もみんな彼が記録してきてます。これだけ長い間、ミュージシャンばっかり撮り続けている人も珍しいでしょう。尊敬に値します。ね、悪口じゃないでしょ(笑)。
今日、彼と古い写真を見ていたんですよ。先日、整理に行ったYUI音楽工房の倉庫から見つかった写真を彼のところに戻そうというんで、それを見ながらいろんな話をしていたんですけど、その時に、あっと思ったことがありました。
彼も、ある時期の写真が抜けて居るんだそうです。つまり、ネガやフィルムが手元にない。編集部に全部渡してそのままになって行方不明というのがかなりあるということでした。みんな70年代の前半。それを聞いて、何気なく「こんなに長くやると思ってなかったんじゃないの」と言ってしまったんですが、彼も「それなんだよね」と、うなずいていました。
ここからが昨日の続きでしょうね。そうなんですよ、その時に僕も思ったんですけど、僕も手元に当時の台本とかが全く残ってないんですね。録音が終わったり放送が終わると捨ててしまったんでしょう。保存とか、記録ということに無関心だった。かっこ良く言えば「生き急いでいた」。これは格好良すぎだね(苦笑)。
ゴーイングアンダーグラウンドの「ハートビート」に”生き急ぐ僕らの 生まれかけた想いを”という名フレーズがありますけど、そんな意識もなかった気がします。放送は消えてしまうからかっこいいんだとか、なんだかんだへりくつを言ってたりしましたね、他人事みたいですけど(笑)。昨日、セイヤングの話をしましたけど、手元にはほんとに全く残ってないんですね。オンエアテープはもちろん台本もないです。その反動か、「J-POPマガジン」は全部同禄をもらってます。
ラジオを止めようかなと思ったのはそれもあったのかもしれません。ハット気づいた時に自分のやってきたことが何も形に残ってなむなしさみたいなものを感じたんでしょうね。まあ、残ってないと言いつつも倉庫一杯に過去のフィルムがあるタムジンと僕とは比較になりませんけど、そんなやりとりにあの当時の空気みたいなものを感じてしまった次第です。仁さん、名前出してしまってごめん。改めてよろしくお願いします(笑)。
誰もが自分のやりたいことを最初から知っているわけでもありませんし、ライフワークなんて大人になって気づくことなんだと思います。とりあえず手当たり次第にやって行く中で見えて来たり、分かってきたりするんでしょう、と、今日はどこか教訓的ですけど(苦笑)。最後の「教訓Ⅰ」かな。でも、テーマはかなり違いますね。
「apbank」のお天気、厳しいですね。でも、僕は晴れ男だから大丈夫でしょう。それより清志郎さんの喉が心配です。今日最後の曲。みゆきさんの「明日天気になあれ」でしょうか。さっき散歩に行ったときは月が出てましたけどね。じゃ、お休みなさい。