と言っても知らない人がほとんどでしょうね。まあ、毎回知らないことの方が多いかもしれませんが。こうやって仕事でもなんでもないところで思いついたことを書いていると、年が分かりますね。書かなくても分かるよ、と言われるかもしれませんが(笑)。
東映フライヤーズというのはプロ野球のチームです。辿りたどれば、今は日本ハムファイターズです。フランチャイズは札幌ですよね。今、好調で、昨日今日と負けましたけど、11連勝をして優勝戦線に食い込んできました。
で、11連勝というのが前身の東映フライヤーズ時代以来だという話が新聞に載っていたんで、思い出した次第です。それも1961年以来とありました。やっぱり思い出すんですよ、あの頃のことを、何しろ年ですからね(笑)。
東映フライヤーズは僕のヒイキチームでした。名前の通り、東映がスポンサーだったんですよ。「映画は東映、野球も東映」というのがキャッチフレーズでした。本拠地は駒沢球場。今の駒沢公園のところにありました。もちろん土のグラウンドで、観客席との境は金網一つ。興奮したファンがグランドに降りることでも有名でした。
柄の悪い球場でした(笑)。選手にもそういう荒っぽい人が沢山いて、捕手の山本八郎という人は、審判の判定がおかしいと下駄を持って追いかけてしまい出場停止になったこともありました。彼の出身は大阪の波商で、その後輩が張本選手とか中日の監督の牛島選手ですね。
でも、面白い球団でしたよ。キャッチフレーズは駒沢の暴れん坊。サインもなして選手に好き放題にやらせるという管理野球の対極でした。応援団のヤジもすごくて、でもユーモアにあふれていて、当時、南海ホークスの看板選手だった現楽天監督の野村克也さんはいつも野次り倒される筆頭でした。「頭の悪い野村」というのがその台詞だったんですけど、大阪の喜劇王と言われた藤山寛美さんに顔が似ていたんで、そう言われたんですけどね。寛美さんはアホ役が売りだったということだけでした。
で、1961年というのは東映の監督が水原さんという、慶応出身のスマートな人になって、いきなり強くなった年でした。彼は後に巨人の名監督になりますけどね。でも、1961年は二位でした。翌年62年に初優勝するんですけどね。1962年というのは映画「アメリカングラフィテイ」の舞台となった年です。ベトナム戦争が始まる前、ケネデイ大統領も健在で、ビートルズが上陸する前。アメリカがもっとも輝いていた時代の最後の年ですね。
日本でも、1962年は「いつでも夢を」がヒットした年です。日本シリーズは東映と阪神でした。東映が勝つんですけどね。あれがアメリカングラフィテイに対して、ジャパニーズグラフィテイだったのかなと思ったりします。
東映フライヤーズ。懐かしいなと思った書いてみた次第です。子供の頃、一番多く行った野球場が駒沢球場でした。東京オリンピックの時になくなったんですけどね。昔話だなあ。でも、しょうがなよね、年なんだから。思い出すことがどんどん増えて行ってます。今年の夏も、そのうちきっとそういう昔話になるんでしょうけどね。
ということで、ワールドカップ決勝戦は録画です。明日は、打ち合わせも取材もありますからね。さて、今日の最後の曲は、そうだ、やっぱりこれだ。柳ジョージとレイニーウッド「青い目のステラ、1962年夏..」。あれは名曲です。枕が涙で濡れそうです。