今まで一回も書いたことありませんよね。一言も触れてこなかったかもしれません。うっかりしてましたね。重松さんとのトークイベントのことで頭が一杯になってました。来週なんです。何と6月5日。後一週間しかない。
ついに実現! 田家秀樹『80年代音楽ノート』、平野悠『1976年の新宿ロフト』出版記念 音楽と時代を存分に語る – LOFT PROJECT SCHEDULE (loft-prj.co.jp)
場所は新宿の歌舞伎町のど真ん中にある「ロフト・プラスワン」。トーク中心のライブハウス。もう何年前かな、氷室さんの話をした記憶があります。その時も平野さんが一緒でしたけど。今回は二人が出した本がテーマです。
僕は「80年代音楽ノート」で平野さんは2月に出たのかな「1976年の新宿ロフト」。彼は26歳だった71年に烏山ロフトを出店したことから始まるんですね。そこから西荻窪ロフト、荻窪ロフト、下北ロフトと出店、76年に新宿ロフトを開店しました。
70年代ライブハウスシーンの生みの親。でも、80年代に入って海を渡って各国を遍歴、ドミニカでお店を開いて90年代に帰国するという波瀾に富んだ人生を送った人。僕は70年代は新宿と深夜放送。音楽を間に同じ時代を過ごしていた。
それぞれにとっての70年代、80年代という話が出来ればということなんですが、実は大学が同じ中大なんです。彼は先輩ですけど途中でダブってるんで学年は一緒だと思います。何でダブったかというと学生運動ですね。
僕は時々デモに行ったりという程度でしたけど、彼は本格的でした。学生運動というより革命運動でしょう。だから僕も学校で会ったことはないんです。ただ、そこで幻滅と挫折を味わって身を引いて私財を投げうって始めたのが烏山ロフトだった。
ライブハウスを始めようというより自分が居心地のいい場所を作ろうとした。彼は音楽ビジネス、特にライブハウスビジネスの基礎を作った人ですから大実業家でもあるわけですが、そういう始まりにずっとシンパシーを持ってました。
僕も同じようなものなんですね。重松さんとのイベントとか本のプロモーションとかで自分のこれまでを振り返るようになって、あらためて思ったのが、音楽にしか居場所が見つけられなかった。その発端は学生運動にあったんだということでしょう。
そんなに大したことはやってないですけど、その頃の話はほとんどしたことがないんです。話しても分かる人はいないだろうし、話したからどうなるものでもない。飲み屋でその頃のことを部下に自慢げに話すサラリーマンは最悪だと思ってました。
でも、そういうことも話したいなと思ったりするのはやっぱりトシでしょう。その頃の友人もどんどんいなくなる。平野さんとはそういう話が出来そうだなと思っていた矢先に「イベントやらないか」と言われて僕の方から平野さんをお願いしました。
とは言っても「ロフトプラスワン」のラインアップの中では浮いてるんでしょうね。僕の知名度もありますし。今、チケットは全く売れてない。1枚なんでそうです。すごいでしょ。バンドメンバーの方がお客さんより多い、というあれです。
きっと今まで話したことのない内容になると思います。「学生運動崩れの落ちこぼれが音楽にどう救われたのか」。そんな話は場所と相手が限られますからね。宜しくお願いします。お客さん一人はまずいです(笑)。
新宿歌舞伎町。もしお時間あれば。宜しくお願いします。というわけで曲ですね。「新宿ロフト」が出来る前の新宿を代表するのが「新宿プレイマップ」でした。69年新宿西口でよく歌われた曲。岡林さんの「友よ」。じゃ、お休みなさい。