会社員じゃないんで今日でおしまいです、みたいなはっきりした形ではありませんが、とりあえず年内にやることは終わりました。延期してしまった伊東ゆかりさんの収録を無事に終えました。ご迷惑おかけしました。
来年1月の5週間の特集、「伊東ゆかりステージデビュー70周年・自叙伝」。彼女自身の軌跡を辿っただけではなく二週目、三週目、四週目は「カバーポップス」のヒロインたちについての話を聞ききました。
江利チエミさん、ザ・ピーナッツ、弘田三枝子さん。江利チエミさんは伊東ゆかりさんと同じレコード会社で、米軍キャンプで歌っていたのも少し早いという先輩、ピーナッツは同じ渡辺プロで一時期は社長の渡辺晋さんの自宅に一緒に下宿していた。
弘田三枝子さんはゆかりさんと同じ年の生まれで同じ米軍キャンプで歌っていたライバル。それぞれの人についての想い出というのが実感こもってました。あまり紹介する機会のない50年代、60年代の日本のポップスシーンの話も出来ました。
何よりも貴重だったのが米軍キャンプの話ですね。戦後全国に駐留していた米軍の施設で歌うんですね。基地だけじゃない。伊勢丹とか宝塚劇場とか聖路加病院も接収されてそういう場所になっていた。
東京、横浜だけで90か所くらいあったという資料を見つけました。そこで毎晩ステージがあるわけだから膨大なバンドやミュージシャン、歌い手が必要になるかは想像できますね。伊東ゆかりさんや弘田三枝子さんはそこで人気の小学生だった。
僕は船橋の映画館の横で生まれて小学校二年生で東京の府中に越したんですね。基地の側でした。基地の終業の時には「星条旗よ永遠なれ」が流れて、あれが流れたら帰りなさいね、と言われてました。
基地の将校が住む芝生の家に週末は英会話の勉強と称して遊びに行く子供でした。基地の通訳だった先生がいて、その人の塾に通ったりしてた。伊東ゆかりさんは僕より一つ下、あの時、基地の中で夜、歌ってたんだと思うと感慨深かったです。
FENを知ったのもそういう流れでしたし。ポップミュージックに目覚めたのあの環境もあったでしょうね。基地は戦争のための場所でしたけど音楽に関しては最大の発信源だったと言っていいでしょう。
東京、横浜だけじゃないですよね。広島は岩国がありましたし、拓郎さんも矢沢さんも浜田さんもFENでしょう。九州では財津さんもそうでした。その後、ベトナム戦争が泥沼に入って、基地反対闘争とかあったんですね。
デモ隊の中にいながらどっかで「ここ好きなんだどなあ」みたいな複雑な気持ちがあったのを思い出しますね、って話が逸れましたね。でも、自分が中高生の時に好きだった歌を歌っていた人にこの年で初めて会う。ま、夢のような時間でした(笑)。
ステージデビュー70年ですよ。今日は浜田さんの70歳の誕生日。そう思うと、いかに稀有なキャリアかがお分かり頂けると思います。今年は色んなことがありました。世の中のことも個人的なことも。12月はその最たる月になりました。
コロナと戦争、そして救急車。でも何とか納められました。というわけで、戦後のポップミュージックの永遠の名曲を。江利チエミさん1952年のデビュー曲「テネシーワルツ」。じゃ、お休みなさい。