桜、満開です。どこに行っても咲いてます。街中でも夜桜がライトアップされていて実に幻想的。街の佇まいが他とは違いますからね。単に幻想的という雰囲気だけじゃなくてそこここにオーラが漂ってる感じです。・
そう、「街のオーラ」というのかな。もちろんこれは気のせいもあるんでしょう。京都だもんなあ、という気分で見ているからそう思えてくる。桜はどこに行っても桜なんですけど、そうは思えない。
やっぱりその街だから、という根拠はある。端的に言ってしまえば「歴史と時間」。お寺でしょうね。あちこちのお寺が何百年、何千年はないか、でも1000年は経ってたりする。悠久の時の流れをくぐりぬけている。
比較になるかどうか分からないですけど、コンサートホールでも古いホールと新しいホールは「鳴り」が違います。響きというか音のしみ込み方が違う。新しいホールの音は表面的な響きがする。古いホールは、音の年期みたいなものが伝わってくる。
それが「ホール」の「音のオーラ」になってるんでしょうけど。京都の桜は、ただ、枝ぶりが見事とか木の本数が多いとかでは語れない気がする。そういうお寺や庭園の説明を読んでいると、樹齢何年ということの重みが木全体から伝わってきます。
それにつけても思うのは、京都が戦災の被害を受けてないことでしょうね。米軍が京都は他の街と違う文化財だから爆撃しなかった。そういう説明がウクライナと重なったりする。もし、ああいう被害を受けてたら何にも残ってなかったでしょう。
破壊してしまったらそこにどういう建物があって、どういう人が暮らしていて、何を託したのかとか、全てが消えてしまう。京都には、その前から綿々と続いていた動乱の日本史も刻まれているわけですて、日本史、興味なかったんですけど。
若い頃には、そういうことにほとんど惹かれませんでしたからね。これも「年齢」の産物なんでしょう。そこに「喫茶店」も加わりました。というようなことを書こうとしたんじゃないんだ(笑)。
もっと軽薄なことを書くつもりでありました。今日、嵐山の方に行ったんですが、和服姿の若い女性がほんとに多い。自分の着物とは思えないのに、似合ってる。みんなかわいい。日本女性だなあと思わせてくれる。
カミさんとそんな話をしていたら、今、そういうサービスが流行ってるんだそうです。着物も貸してくれるし着付けもしてくれる。そうだろうなあとは思いましたけど、観光客が街のエキストラみたいな役割をはたしているように思えました。
どうでもいい話ですけど(笑)。でも、久々に歩き回ったら足が棒のようになってがくがく。そういう街歩きが出来るのもそんなに長いことじゃないかもしれないと。それが一層「街のオーラ」みたいなものに敏感になっていたのかもしれません。
というわけで、曲ですね。「嵐山」で浮かんだ曲。長渕剛さん「雨の嵐山」。最初のデビュー曲。納得できる活動が出来ずに福岡に一旦戻ってしまったといういわくつきの曲。彼にとっては抹殺したい歴史なんでしょうけど。じゃ、お休みなさい。