という並びでお分かりになる方はもうほとんどいないでしょうね。ゴダイゴは聴いてましたよ、という方はたくさんいらっしゃるでしぃうけど、フラワー・トラベリン・バンドという名前は知らないという方が多いと思います。
ゴダイゴのアルバムを聴き直したり去年出た「45周年公式本」を読んでいて色んな発見がありました。今まで別々のところにあるように思っていたその二つのバンドが、かなり近いものだった。そういうことだったんだ、という感じでした。
フラワー・トラベリン・バンドというのは、70年にデビューしたバンドですね。プロデユーサーは内田裕也さん。ヴォーカルがジョー・山中さん。ギターが石間秀幾さん。彼はのちにトランザムというバンドを組みますね。
拓郎さんの75年の「つま恋」のバックをつとめたバンド。吉田拓郎・松本隆のコンビ「ああ青春」を最初に歌った、という話ではなくて。フラワー・トラベリン・バンドは70年の暮れにカナダに渡って71年に「SATORI」というアルバムを作りました。
土着的で東洋的なロック。海外で発売されてカナダのアルバムチャートのトップ10に入るんですね。海外で評価、成功した草分けのバンドでした。カナダやアメリカでツアーを成功させて72年に日本に凱旋するんです。
でも、日本は拓郎さんの爆発的な人気に始まったフォークムーブメントの大渦中。しかも、オープニング出演も決まっていたローリングストーンズの73年の来日公演も中止になってしまい、失意の中で解散してしまいました。
カナダでの彼らの受け皿になっていたのが、去年なくなったゴダイゴのプロデユーサーのジョニー野村さんだった。アルバム「SATORI」は英語で歌われていて、その歌詞を書いたのがゴダイゴの一連の曲の詞を書いていた奈良橋陽子さんだった。
ゴダイゴには人気バンドという括りでは語れない「思想」があると思っていたんですが、そこにフラワー・トラベリン・バンドが登場した。奈良橋さんとジョニー野村さんは当時ご夫婦だった。いやあ、繋がったなあという感じでした。
ゴダイゴはゴールデンカップス解散以降、ミッキー吉野グループとして活動していたミッキーさんと英語のアルバムでデビューしたタケカワユキヒデさんが出会うことで始まるわけです。二人を結びつけたのがジョニー・野村さんだった。
ミッキー吉野さんは、カップスを抜けた後にボストンのバークレー音楽大学に通うんですね。横浜時代の後輩さったベースのステイーブフォックスさんも彼の後を追うようにバークレーに入学して、ドラムのトミースナイダーさんと出会うわけです。
言ってみれば「英語派」の人たちなんですね。だからゴダイゴは英語の歌が多かった。音楽はワールドワイドなものだから英語で歌う。内田裕也さんが掲げていた旗ですよ。ゴダイゴはその最大の成功例と言っていいのではないだろうか。
というようなことを考えてしまったのは、「風街とデラシネ・作詞家松本隆の50年」があったからでしょうね。「日本語ロック」の最大の功労者がはっぴいえんどだったわけですからね。「英語日本語論争」があった時代です。
昨日の話に強引につなげれば、z世代は英語でも日本語でも気にしないという世代でもあるでしょう。ゴダイゴはそこにフィットするような気もしてます。あまりそういう流れの中で語られたことはないかもなあ、と思ったりする今日一日でした。
番組ではそこまでの話にはならないでしょうけど、こういう昔話は楽しいです(笑)。というわけで曲ですね。ゴダイゴの「ガンダーラ」がフラワー・トラベリン・バンドの「SATORI PARTⅡ」と繋がりました。じゃ、お休みなさい。