いかめしいタイトルになりました。どうしようかな、と思いつつ書いてます。今日は1月19日。17日は阪神淡路大震災ですね。今年も様々な形で報道されました。5000人以上の方がなくなった災害を風化させない、忘れないようにする日ですね。
その後、1月18・19日というのが東大安田講堂。もう取り上げられることもなくなりました。阪神淡路大震災が95年、安田講堂は69年。かなり間は空いてますが、この3日間は何となく回顧モードになることがあります。
と言ってもふっと思い出す日、という感じですね。光景が目に焼き付いている。阪神淡路大震災の時は二か月後に神戸に行きました。まだ倒壊したビルがそのままになっていて、「チキンジョージ」という」ライブハウスはぺしゃんこになってました。
倒壊した建物に向かって手を合わせてのはあれが最初ですね。その足で西宮の今も通っている接骨院までバスで行こうとして足がすくんで身体が震えて涙が溢れてきたんです。人間には感情が制御不能になる瞬間がある。初めての経験でした。
バスのルート沿い、国道沿いというのかな両端の家が連なって転覆してる。土台が空を向いてしまっている。その間をびっしりと車が渋滞している。この世のものとは思えない光景でした。で、西宮の接骨院にお見舞いがてらよったんですね。
そうしたら、受付の女性が「東京も大変ですねえ」と同情してくれたんです。何と地下鉄サリンの日、でした。大阪の人は自分のことを置いておいて東京を心配する。優しい人たちなんだなあと思った覚えがあります。
で、1月18,19日の東大安田講堂。僕はテレビで見てました。大学4年。就職試験を全部落ちて東急エージェンシーという新興の広告代理店でバイト中。画面の中で燃え落ちる安田講堂をどんな気持ちで見ていたか、もう思い出せません。
4年生で就職も決まってない。全部落ちましたからね。書いちゃいますね。平凡出版、共同通信、学研、神奈川新聞、大和書房。全滅。平凡出版と共同通信は面接で議論、というか論争、ま、喧嘩ですね。
学研は試験が全然できなかった。神奈川新聞は受けたことすらもう思い出せない。大和書房はバイトがあるから面接の日を変えてくれ、と言って担当者を怒らせてしまいました。面接はやってくれたんです。でも、その場でこんこんと説教されました。
ま、生意気な学生だったわけです。あの時代ですからね。前の年の秋まではヘルメットを被ったりしてたわけで社会に対しては敵意の方が強かった。落ちて当然、みたいな学生をゼミの先輩が拾ってくれてバイトに行ってました。
その人が、文化放送が新宿でタウン誌を創刊しようとしてるけど行ってみるか、というところから全てが始まってるわけです。でも、安田講堂の時はまだ決まってませんでしたからね。宙ぶらりんの中でニュースを見てました。
あそこで捕まった学生で、今、大出版社の社長になってる人もいますからね。行方不明になってしまった友人もいました。何かが終わってゆくのを呆然と見てた、という感じだったんじゃないでしょうか。
強い者とそれに歯向かう弱い者の末路、みたいな現実を突きつけられていた。その後、全国の大学で同じような光景が展開されて歴史の歯車が逆転してゆくわけですけどね。50年以上前の話です。
改めて思い出したりしたのは、東大の前で傷害事件が起こったりしたからでしょうね。東大に入れない、成績が思うようにならないからと受験生を傷つける。成績が上がらないのも就職試験に落ちるのも自分のせいだとは思えないんでしょうね。
50年以上前とは比較のしようがないですが、どこか哀れで空しい。もっと強く生きろよ、と言ってもどうにもなりませんけど。神戸の街は見違えるように立ち直ってるわけですし。人間はもっと強いんじゃないのか、という気もしますし。
コロナ禍が人を狂わせているのかもしれないなとか。今日の感染者数はついに7000人を突破。またしても時短。人間はもっと賢いんじゃないのか、と思ったり。どこまで行くんでしょうか。というわけで、とりとめないです。
嬉しい知らせは、GLAYのさいたまスーパーアリーナを取材することになりました。そういう依頼が嬉しい。取材の人たちもそれまでに体調管理を報告しないといけません。負けてたまるか、乗り切ってやるぞ、という感じです。
曲ですね。GLAYの「生きてく強さ」を。受験なんかに負けるな。成績が少しくらい悪くても卑屈になるな。じゃ、お休みなさい。