余韻、続いてます。昨日の夜は結局、なかなか寝付けなくて導眠剤のお世話になりました。興奮して寝付けない、というより頭が冴えてしまってと言った方がいいでしょうね。あれこれ考えてしまって寝られなくなってしまった。
やっぱり80年代前半のことですね。大きく言ってしまうと、70年代と80年代の違いとかね。世の中のことや社会のことから自分の身の回りの小さなこと。色んな意味であの頃が転機だったなあ、と思い始めると連想ゲーム風に止まらなくなる。
僕は音楽のことだけ書いてるわけじゃなかったですからね。ラジオから離れて編集プロダクションを、かっこよく言えば主宰してましたし、その一方で音楽のことを書いているという形でした。70年代の終わりからそういう感じですね。
だから、仕事という意識はあんまりなかった。好きなアーテイストやバンドのことを書いたりしてるのが楽しかった。その中には浜田さんだけじゃなくて、もちろん、拓郎さんや甲斐バンドもいたわけです。
そういう人たちの中で浜田さんのどこに惹かれていたのかとか。メロデイーや声は前提にありますけど、「青春感」とか「時代観」だったんだな、と思ったりね。やっぱり「路地裏の少年」が大きかったんでしょうけど、他人事のような気がしなかった。自分の歌のように思えた。
年末に仕事場を片付けていて、浜田さんがデビューした時の紙資料が出てきたんですよ。レコード会社が作る、いわゆるプレスリリースですね。捨ててなかった。76年の3月だから何年前、45年前か。割ときれいなままでした。
デビューの時のプレスリリースが残ってるアーテイストは他にいませんよ。整理整頓が苦手な方ですから単に「捨ててない」だけという資料もあるんですけど、さすがにそんなに時間が経ってるものはありません。
意識的に「保存」しておいたんでしょう。ファイルにも入ってましたからね。とは言っても70年代の半ばから後半は、ラジオが一番忙しい時でしたから、スタジオ以外にはほとんど行かれてない。
ですから、デビューの時に渋谷「屋根裏」は行ってますけど、一番苦しいライブハウス時代のライブは見てないんです。その頃をお客さんで見ている人で業界にいるのは、ファンクラブの会報誌を作ってる古矢さんくらいでしょう。
僕は、年も少し上で仕事もしてましたから、そういう共感や親近感を持ちつつ、一歩引いてるところもあった気がしますね。82年の武道館の時もどこかではらはらしてたんじゃないでしょうか。今ごろ、そんな話されたくないでしょうけどね(笑)。
それもあったのかどうか、昨日もちょっと書きましたけど、あんまり色んなことを覚えてない。顔見知りの撮影スタッフに「ミッドナイトブルートレイン」でギターを落としたんですってね、と聞かれて思い出せなかったんです。そういうことじゃないんだ、みたいな気分もありました。
ただ、ライブの空気は覚えていた。それも昨日の演奏中にふっと蘇ったりもしたんですけど、それがすぐに今目にしている光景で上書きされて行ってるような気がしたんです。そう、上書きなんですよ。
寝ようかなと思ってあれこれ考えていた時に、「上書き」かと思った。記憶が塗り替えられいった。データの上書きは出来ますけど、記憶がそんな風に新しくなるという経験はないと思いますよ。
「若さ」が「経験」で塗り替えられた感慨。浜田さんも当時から今の「浜田省吾」だったわけではなくて、その後の40年という時間の中で「浜田省吾」になった。ジョンレノンが「僕らはビートルズになった」と言ったのと同じでしょう。
僕らもそうなわけです。そんなに立派な人間でもありませんし、比較するのもおこがましいですけど、僕もそうだったんだと思えたんですね。昨日のライブがいいライブだったというだけじゃなく思えたのは、その重み故だったんじゃないでしょうか。
時間の重み。それがどういうことかを見事に形にした。それもこれ以上ない形で「上書き」してくれた。うーん、まだうまく言い切れてない感じもするんですが、今日、大宮に向かう電車の中で、ふっと目頭が熱くなるみたいな瞬間もありました。
2022年、いい年になりそうです。自分の老後もね(笑)。というわけで、この話は今日までかな。曲ですね。やっぱり「陽のあたる場所」にします。あの本が書けて本当に良かった、と思いました。それもこれもあの武道館があったからです。じゃ、お休みなさい。