何で今頃、でしょう。1982年12月発売。全曲の詞曲が陽水さんの書き下ろし。シングルになった「背中まで45分」が収録されてます。共同通信発の連載「80年代ノート」で1982年の話を色々書いていて、そう言えば、と思い出しました。
改めて聞き直してその頃のことを調べていて思ったことが二つありました。一つは陽水さんにとって82年というのがとっても重要な年だったということ。ベストアルバムを2枚、オリジナルアルバムは「ライオンとペリカン」がある。
シングルも2枚。更にそれまでテレビとは無縁だったのにNHKホールでライブをやってやはりNHKでオンエアもしている。そんな中で沢田さんにアルバムまで書いている。”寡作の人”とは思えない精力的な活動の年でした。
何でそんなに活発に動いていたか。その動機のひとつが自分の事務所を作ったことでしょう。シングル「リバーサイドホテル」のカップリングが「俺の事務所はCAMP」でした。事務所の名前ですね。
陽水さんの94年に出た本「媚売る作家」を見ていたら「ミスキャスト」のことが出てましたね。「最初は2,3曲頼まれたんだけど、アルバム全部を書いたらビックリされるかな」と思って書いた、とありました。
ネットには「最初は曲だけ頼まれたんだけど、沢田研二なら詞も書きたい」という陽水さんの希望でそうなった、とありました。そういう説は大体、どれも本当だったりするんだろうと思うんです。当たらずとも遠からずというのかな。
誰が陽水さんを起用したんだろうと思ったら渡辺音楽出版の名プロデユーサー、木崎賢治さん。70年代にアグネスチャンのアルバムに松本隆さんを起用した人。沢田研二に佐野元春さんを抜擢した人。
その後は槇原敬之さん、BUMP OF CHICKENを送り出した人。他にも大沢譽志幸さんとか吉川晃司さんとか。今でも元気な歴史上のプロデユーサー。陽水さんも彼でありました。80年代は新しい組み合わせが活発だった時代ですね。
で、改めて思ったことのもう一つ。沢田研二という人の歌のうまさ。それまでの8ビート系のロックとは全然違う、ミステリアスなファンタジー、それもテクノ調だったりする。艶や妖しさ、アンニョイみたいなムードを発散してる。
ホテルのロビーで出会って抱き合うまで、背中のジッパーが外されるまでの時間をカウントダウンで描いている。画期的な展開の曲。「背中まで45分」は、陽水さんの自分の曲の中でも屈指のラブソングでしょう。
にも拘わらずそんなに売れなかった。当時のファンには大人っぽかったのかもしれ ません。”ジュリー”という感じじゃないですもんね。今聞いても彼の声は色っぽいです。いつか沢田さんのインタビューがしたいんですが、取りつく島がありません。
FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」、残された最後の大物、という感じです。どなたかお力をお貸し頂ければ。というわけで、沢田研二さん「背中まで45分」を。じゃ、お休みなさい。