「誰か」というのは「誰」なんでしょうね。言い換えれば「神様」ということにもなるんですが、そう言ってしまうと何だか怪しげになってしまいますが、「神様」でも「仏様」でも「なくなったおばあちゃん」でもいいです。どっかで誰かが見ててくれるのかな、という感覚ですね。
今朝、早かったんですよ。ニッポン放送の早朝の人気番組、上柳昌彦さんの「朝ぼらけ」のゲストに呼ばれたんですね。収録の時間が10時から。ということは10分くらい前には行かないといけない。僕にすればかなり早いです。
何だかどっと疲れが出てしまった感じなのと妙に暑かった感じで、昨日、寝たか寝ないか分からない状態で家を出たわけです。何だか頭がふらつく感じで、靴を履くときも急にうつむくと眩暈がしそうで、タクシーを呼んで駅に向かいました。
その後、FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」の「岡村靖幸特集」の二週録りもありましたからね。満員電車、しんどいなあ、と思って電車に乗ったんです。そうしたら次の駅で僕が立っている前の席の女性が降りたんですよ。
え、降りてくれるんだ、という感じ。大げさに言うと「助かった」という気分。お陰でずっと座って寝ていけました。その時に「誰かが見ててくれるみたいだなあ」って思った。それが気持ちを楽にしたんでしょうね、一日、無事に終わりました。
「神様」という言葉は使いにくいですよね。でも、そういう願ってもない偶然というのはあるわけで、思わず空を見上げたりする。そういう時に、何となく大いなる何者かがどっかで見ているんじゃないか、と思ったりするわけです。
「有神論」とか「無神論」という議論とは別、次元が違います。でも、「大いなる存在」という感覚。それを「宗教心」というのだとしたら、僕は「宗教心はある」ということになりますね。「宗派」とか「宗教」ということじゃないです。
そういう議論だと、僕は「否神論」かな。「宗教的な対立」が人間を滅ぼすと思ってますから、そういう原因になる「神」は否定したい。でも、どこかに「大いなる存在」はいると思いたい。「あ、見ててくれた」と思ったのはそれでしょうね。
妙な話になってます(笑)。でも、色々一段落しました。前に「10月は忙しい」と書きましたけど、予想以上でした。「風街とデラシネ・作詞家松本隆の50年」が好意的に受け止められているということでしょうから、感謝の一言に尽きます。
話が大げさになってしまいました。明日は仕事場に行くだけ。NACK5「J-POP TALKIN’」、完パケの台本。気が楽です。曲ですね。RADWIMPSの「有心論」。”誰も端っこで泣かないように神様は地球を丸くした”。「有心」と「有神」が同じであることを願って。じゃ、お休みなさい。