というわけでなってしまいました。75才、後期高齢者(笑)。もちろん(笑)ですよ。(涙)じゃないっす。(汗)でもない。汗も涙も縁がない。そんな人生になってしまいましたって、どういうことだ。出まかせです(笑)。
いや、冷や汗も悔し涙もたくさん出ましたよ。フリーランスは常に綱渡りみたいなもんですし。駒ですね。止まってしまうとすぐに倒れる。回り続けることでしか生きられない。もちろん、もうそんなに切羽つまった状態ではありませんけど若い頃はそういう感じでしたからね。
特に20代はそう。文化放送で構成台本を書いたりしている頃は、明日のことで精いっぱい。毎日が手斧で目の前の林を切り開いている感じでした。いつまでやれるんだろうとか、やろうとか、先のことが考えられませんでした。
こういう仕事をしている人は、何となく派閥があるんですよ。どこかの新聞社の出身とか音楽雑誌の編集部にいたとか、誰かのお弟子さんとかね。そういう意味で言えば、僕は師匠も先生もいない。気が付いたらこうなっていた感じなんです。
音楽を作っている人たちみたいに才能があるわけでもないですし。ただ、嫌いなことをやらないようにしたい。好きな音楽のそばにいたいということだけ。どうすればそうなれるか、ということの積み重ねだったと言っていいかもしれません。
そういう意味では恵まれた75才ということになるでしょうね。と書いていながら「75才」という数字には何のリアリテイもない。「75年」ということの方が実感がありますね。「1975年」。29才の年。20代が終わる年、色んなことがありました。
今日、KADOKAWAの編集長がゲラ、つまり、校正を取りに来てくれたんです。実は誕生日なんですよ、という話になって、いつから書いてるんでしったけ、と聞かれたんです。そうやって振り返ることもあまりありませんからね。
文化放送で放送台本を書くようになったのを「物書き」の第一歩と考えると71年の4月だった。それまでは編集者でしたからね。文字を書くことでギャラをもらうようになった最初。「はしだのりひこのビューテイフル・ノンノ」という番組でした。
15分のベルト番組。「ノンノ」が創刊したばかりの集英社がスポンサー。見よう見まねで書き始めたのが最初。「お前、ラジオの台本に興味あるか」と言ってくれたプロデユーサーの駒井さんも今年なくなりました。
あの一言がなかったらこうはなってません。放送作家になるなんて夢にも思ってませんでしたから。「じゃあ、50周年じゃないですか」と言われてその時に気づきました。そうか、はっぴいえんどの「風街ろまん」と一緒かと。
もちろん、話の流れの基本は「風街とデラシネ・作詞家松本隆の50年」にあるわけですからね。松本さんの50周年は、自分の時間でもあるんだ、と改めて思った次第です。今更ですけどね。だからどうなんだ、ということでもあります。
ものすごく乱暴な分け方をすると「表現者」「アーテイスト」というのは自分にしか関心が持てない人、「ジャーナリスト」というのは他人にしか興味持てない人、と思ったりするんです。そういう分け方をすれば、僕は完璧に後者でしょうね。
もっと言ってしまえ「野次馬」(笑)。自分のことを過大評価できないのは、そういう自覚があるからなんでしょう、というようなことを言いながら、ここまで来れたわけですから、恵まれた「75才」であり「50周年」なんだろうな、と思います。
まあ、こんな中身のない戯言ですけど、たぶん書けなくなるまで続けるんでしょう。今後ともお付き合い頂けると幸いです。というわけで、曲ですね。50年前に初めて台本を書いた相手、はしだのりひこさん。シューベルツで「風」を。そこにはただ風が吹いているだけです。じゃ、お休みなさい。