ダメでしたね。そろそろ決まるなあと思っていたんですが、浜田さんのファンクラブツアー、中止。残念の一言。こういう状況だからしょうがないとしか言いようがないわけですが。
頭ではわかっいても微かな期待が断ち切られてしまったような感じですね。宙に放り出されたというか、先が見えなくなったというか。席がなくてもいいですから、という気分でその気になっていたわけですが、手帳には全部×を付けました。
淡々とつけた、という感じではなかったですね。じゃあ、この頃何をしてるんだろう、と。こんな毎日がずっと続くのか、と思うと気が滅入ってくる。なくなって分かることというのは色々ありますが、浜田さんのツアーもそうですね。
この話は何度も書いてますけど、僕はフリーランスですから会社の同僚や上司という関係がないんですね。仕事はつねに一期一会。次があるかどうかは分からない。縁があればまた今度、というのが日常です。
ツアーの現場が好きなのは、「みんなで作り上げる」という実感が味わえるからなんですね。客席にいると演奏時間が全てですけど、ツアーはそうじゃないですからね。むしろ演奏時間はその一部。そこに至る過程や支える関係性がたくさんある。
スタッフ、ミュージシャン、そして観客。会場にいる様々な立場の人の「共感」みたいなものが全て。むしろ「裏」にこそドラマがある。浜田さんのツアーはその象徴であり典型でもあると思ってるんです。
あれだけ長い間関わっているスタッフが中心になっているツアー・クルーは浜田さんだけでしょう。その人たちの人生があの会場にある。それを初めて知ったのが90年の浜田さんのツアーでした。
またその話か、になりそうですけど、しょうがないんです。9か月間、48都市83本。同じ人たちと旅をしたわけですから。同じ旅の飯を食べた。そんな経験はあの時しかありません。音楽の聴き方、取材の仕方、書き方。全く変わってしまいました。
コンサートももちろん好きですが、スタッフも含めた関係性のヒューマニティーみたいなもの。そういう関係を作り出しているのが浜田さん自身の人間性であることは言うまでもないわけです。それが会場の空気になってるんですね。
コンサート会場が「非日常」と言われるのは色んな意味があると思ってるんですね。「日常」では起こりえないこと、生まれようがないこと、味わえないこと。それはサーカス小屋やマジックショーみたいな場所を意味するわけありません。
むしろ「超日常」というのかな。「純日常」。「日常」の中で一番「純」なものがある。失われているのものが息づいている。「エンターテインメント」というくくりでは説明のつかない「共感の蓄積」がある。
コロナ禍の中でそれがどんな風に音楽として結実してゆくのか。見たかった。経験したかった。もちろん書きたかった。チャーリーワッツが死んだ80歳まで僕は後5年。もうそんな機会も残ってないかもしれない。
コロナが恨めしい、と思ってるのは僕だけじゃないでしょうし。もっと辛い思いをしている人たちがたくさんいます。浜田さんの90年のツアーで共に旅した長年のスタッフも二名ほどなくなってしまいました。コロナではありませんが。そんなに先は残されてないです。
元気でいましょう。次に会えるまで。というわけで、昨日、軽い熱中症でした。残暑、気をつけましょう。曲ですね。浜田さん、「日はまた昇る」を。じゃ、お休みなさい。