という話を聞いたんですよ。いい例えだなあ、と思ったんですね。と言ってもビートルズのマニアの方の中には、そんなにお手軽に例えるな、という方もいらっしゃるでしょう。ポールは詞も曲も書くけど、大滝さんも細野さんも曲が主体じゃないか、とかね。
そういう厳密なアーテイスト論ということではなくて、一つのバンドの中の関係性の例えですからね。「のような存在」だと思ってください。はっぴいえんどというバンドの中の二つの巨星を例えると、そういう「感じ」ということですね。もちろん、そこには松本さんというもう一つの巨星も入るわけですが。
そういう例えをしてくれたのが、今日、インタビューした安部勇磨さん。昨日書いたように自他ともに認める公認の細野さんチルドレン。彼の中のはっぴいえんど、細野さんについて話を聞いている時に、ふっと「大滝さんについてはどう思われてたんですか」と聞いたら、そんな答えが返ってきました。
はっぴいえんどを日本の音楽史の中でのビートルズのような存在に例える人は少なくないです。繰り返しますが、「のような」ですよ。バンドの関係性とか、音楽の斬新さや実験性。一つのバンドの登場で変わってしまった音楽の流れ。そして、その後のそれぞれのミュージシャンの影響力ですね。
でも、個々の存在をそんな風に明快に例えた人にはあんまり出会ったことがない感じもしてました。そう言われた時に、妙に清々しかったんです。すんなりと頷けた。何ででしょうね。90年代生まれの人たちにはそう見えるんだ、ということが分かりやすかった、ということでしょうね。
僕らが、ビートルズを見ていた時に感じていた、メロディメーカー、コンポーザーとしてのポールの非の打ちどころのなさ、みたいなものを90年代生まれの勇磨さんは、大滝さんに見ている。人間的な弱さや音楽の試行錯誤みたいなものがそのまま活動に出るジョン・レノンと同じような資質を細野さんに感じている。
そういうことかあ、と思ったんですね。若い世代のミュージシャンの間で細野さんの信奉者が多いのも、そこか、と。大滝さんは、自己完結していて入り込む隙がない気がする。細野さんはその点、人間的な感じがすると。確かに、門間雄介さんの「細野晴臣と彼らの時代」を読むと、そういう指摘が納得できます。
安部勇磨さんのインタビュー、面白かったです。彼の初のソロアルバムのことだけでなくnever young beachのことや、90年代生まれという世代のこと、そして、はっぴいえんどと細野晴臣観。音楽の伝わり方の実例を目の当たりにした気がしました。時代は変わってます。
もちろん、異論のある方は多いでしょうけど。でも、色んな人が色んな感じ方を語ってゆく。それが音楽の面白さでしょうし。100人の人間がいれば100の感じ方や語り方があってしかるべきです。誰が何を言おうと自由。そういう話が出来るとほっこりした気持ちになる。そんなインタビューでした。
というわけで、曲ですね。まだ発売前ですが、安部勇磨さんのアルバム「Fantasia」から「おまえも」。アルバムの最初に出来た曲で、ゴジラに向けたんだそうです。ゴジラの目が赤いのは、自分の異形を嘆いて泣き明かしたせいじゃないか、という解釈にちょっぴり感動しました。じゃ、お休みなさい。