この間、伊藤アキラさんがなくなったと思ったら、今日は小林亜星さん。立て続けです。伊藤さんの訃報を聞いた時、亜星さん大丈夫かなあ、と思ったんですが、大丈夫じゃなかったことになります。
そういうものなんでしょうねえ。盟友とか親友だった近しい人がなくなると、連鎖反応のように続いてゆく。それまで張りつめていた何かが切れてしまうんでしょう。亜星さんの方が年上ですからね。
自分より下の人が逝ってしまうことで余計そういう何かが失われてしまう。お子さんをなくした親御さんが後を追うようになるのと似ているように思います。伊藤さんと亜星さん。CM音楽を土俵に戦った戦友でもあるわけですから。
実は、昼間、伊藤アキラさんについて朝日新聞の取材を受けてたんです。そこで二人の関係について話をした1時間後くらいに仕事場に戻ったら訃報が流れました。その後に共同通信と朝日新聞と毎日新聞、立て続けにコメント依頼の電話がありました。
僕でいいのかなあ、と思いつつですよ。亜星さんと同世代のジャーナリストはもういないんでしょうね。僕は、2007年に出た本「みんなCM音楽を歌っていた~大森昭雄ともうひとつのJ-POP」の中で取材してますからね。
それもスタジオジブリの月刊誌「熱風」に連載していたものなんですが、その本のに亜星さんの章があるんです。訃報を見て、びっくりして、さっき話してたばかりだよなあ、と思いつつそこを読み直していたところに電話がありました。
この間も書きましたけど、伊藤アキラさんの全面協力で書けた本ですからね。亜星さんのインタビューの時も伊藤さんが同席して下さってたんです。そのせいもあって普通の取材では話さないようなことも色々してくれました。
どういう生い立ちで、どんな風に音楽に出会って、なぜ作曲家になったのか。祖父がお医者さんで、自分も医者になるつもりで慶応の医学部に入ったものの音楽をやりたくて経済に転部したとか。進駐軍やキャバレーでジャズを演奏していたとか。
お父さんが文学青年の進歩的な官僚で、亜星という名前は亜米利加の”亜”で星は星条旗の”星”だった。戦時中は”アメリカのスパイ”といじめられた中学生だったという話とか。アメリカに憧れる中でジャズに出会ったんですね。
作曲家になろうと思った時に「ダサい音楽は全部自分の手で塗り替えてやると思った」という話とかね。CM音楽の歴史の中で、三木鶏郎さんの影響を受けずに作曲家になった最初の人でもありますね。
長くなりそうになってきた。でも、一番聞きたかったのは、61年に始まったレナウン「イエイエ」についてだったんです。最初のCMソング。かっこいいCMでした。”ワンサカ娘”ですね。あの曲をどうやって作ったかとか。
そこから始まって、ポップスや歌謡曲、ホームソングやCMソング。あんなに幅広かった作曲家はいなかったんじゃないでしょうか。しかも役者としても親しまれた。最後まで反骨の人でもありましたし。
でも、こんな風に思うのも、僕らの年代まででしょうね。自分の役割は、そういうことになってきたのかなあ、と。昨日、「関ジャム」で「東京事変」の特集を見たせいもあるんでしょね。
面白い特集だけど、全くのミュージシャン視線で、僕には出来ないなあという感じでした。新しい音楽ではなくて、そういう上の世代のことを伝えてゆくのが、今の僕らの役割なのかなあと。それにしても立て続けが過ぎます。
亜星さんのご冥福をお祈りします。曲は、レナウン「イエイエ」を。CMの映像も新しくてカッコよかったです。じゃ、お休みなさい。