大げさなタイトルになりました。でも、そういう感じなんです。40年経って初めて真実が明らかになった。自分の記憶がいかにいい加減で思い込みに過ぎなかったか。自信喪失。かなりショックなことでした。
ホノルルマラソンに出たことがあるんですよ。ハワイのことを書いた時に何度か触れたような気もするんですが、1982年。僕は36歳。特に運動をしていたわけでもなくむしろその逆。二日酔いと徹夜が常習という不健康の見本のような生活でした。
なんでそんなことになったかと言うと、当時、TBSラジオでやっていたインタビュー番組で高石ともやさんを取り上げたんです。彼は、鉄人レースとかに出まくっている時で自分のツアーでは次の会場まで走ってました。
で、彼はホノルルマラソンにも常連で、音楽とマラソン、みたいなテーマで話を聞こうということになった。そうしたら、TBSと彼の事務所が経費を半々で持つので現地でインタビューするということになりました。
マラソンの二日前か。ワイキキのカピオラニ公園でインタビューを始めたんですが、高石さんが「ここのマラソンは誰でも参加できるから走ってみれば。終わってから話そう。その方がいいインタビューになるよ」と言ったんです。
参加費は7ドルだったかな。じゃあ、とマネージャーが登録をして、走ることになってしまった。いきがかりですからね。出たんですよ。結果的には折り返し点で膝がだめになってしまい、後半は足を引きずりながらの歩き。6時間40分くらいでした。
何とかゴールはしたんですけど膝の靭帯を痛めてしまって、それ以降走れなくなり最初で最後のマラソン体験になりました。でも、人生であんなに感動したことはなくて、自分で「ホノルルマラソン以前以後」と今も思っている転機になったんです。
ホノルルのマラソンはすべてボランテイアで成り立っていて、走る意思のある人がコース上にいる限り、”足きり”をしなかった。今はどうか知りませんけど。で、道中、観客が水をかけてくれたりするんですが、”頑張れ”と言わないんです。
何というか。”SMILE”というんです。この話は前にも書きましたけど、”SMILE”と言われるとやっぱり笑うんです。そうするとボロボロの身体が少し元気になる。足を引きずりながらゴールできたのは、あの声のおかげだったと言っていいでしょう。
という記憶の中に、同じように一緒に走った、と思っていたミュージシャンがいたんです。それが僕の記憶違いだった、ということが40年後の昨日、明らかになりました。この話、長いから昨日は書けませんでしたけど。
FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」の5月の特集「高田渡」の4週目のゲストがマルチ弦楽器奏者、シンガーソングライターの佐久間順平さん。渡さんのバンド、ヒルトップ・ストリングス・バンドの一員、20年間ステージを共にされた方です。
僕は、あの時、僕の前を走って、いつのまにか姿が見えなくなったミュージシャンをずっと彼だと思ってたんですよ。でも、昨日までちゃんと話をしたことがなかった。CDのクレジットなどで名前を見るたびに、勝手に親近感を感じてました。
で、高田渡さんの縁の一人としてゲストに来られて、収録前にその話をしたんです。「ホノルルマラソン、何度か出てますよね」と聞いたら彼がびっくりしたような表情で「え、僕運動音痴なんでただの一度もありません」と即座に否定されました。
40年間、そう思い込んでいた自分の記憶は何なんだ、と。衝撃でしたよ。ただ、高石さんと一緒に来ていたミュージシャンが参加したことは確かで、僕の前にいていつのまにか視界からいなくなってしまったのも間違いない。
じゃあ、一体、あれは誰だったんだ、あんなに近しく思っていた感情は何だったんだと。でも、彼は実に話し上手で、そんな動揺はインタビューには影響しなかったんですが。今もどこか狐につままれたみたいです。
自分の記憶が信じられない。思い込みが激しいし、曲名や人の名前、年号などの間違いは日常茶飯事なんですが、そういう次元じゃないです。記憶に頼ってはいけないという教訓にしなければ、という感じです。
こうやって書いておけば、もう間違えないでしょうから、と思って長々と書いてしまいました。でも、あんなに感動したことはないのは事実。あの後から生活を改めました(笑)。人生を変えた島。コロナが明けたら、まずハワイに行きたい。
順平さん、失礼しました。というわけで、曲ですね。高石ともやさんとザ・ナターシャセブンで「私に人生と呼べるものがあるなら」を。あの時、走ったのは、ナターシャの誰かだったのかもしれません。今頃ですが(笑)。じゃ、おやすみなさい。