15日でしたから、ちょっと時間が経ってしまいました。すぐに書く気にもなれなかった、というのが正直なところですね。かなりショックでした。仕事をしている時は考えませんけど、ふとした時に頭をもたげてくる、というのかな。途方にくれる感じになったりします。
でも、ミュージシャンでもタレントでもないんで、名前をご存じの方は少ないでしょうけど、音楽業界、放送業界、特にラジオの世界では知らない人はいない。厳密にいえば、ある程度キャリアのある年代には、と言った方がいいかもしれませんが。
僕はその人の肩書を間違えることが多いんです。よく知らない。会社勤めの人は偉くなるにつれたり関連会社に出向して変わったりするんで、あまり関心がない。自分にとって、その人がいい人でありお世話になった人なら、それだけでいい。
笹山さんも定年で退職してました。Tokyo Fmの重役からMXテレビのかなり偉い立場になったと思います。最後は音楽出版の社長さんだったんじゃないかって、相当にいい加減。でも、そういうことを気にする人じゃなかったです。
僕が一緒に仕事をしていたのはTokyo Fmの時代。それぞれの仕事にこの人がいなかったら、どうなっていただろう、という人がいるんですけど、FMということでは彼しかいませんでした。
僕より一つ下。Tokyo Fmの開局の時に入ったんだと思います。数少ない生え抜き。生きたFMラジオの歴史。その矜持みたいなものは持ち続けてました。最初に仕事をしたのは79年の甲斐バンドの武道館の特番だったと思うんです。
その前に75年の拓郎さんとかぐや姫の「つま恋」のTokyo Fmの特番、という説もあったんですが、あの時の記憶は曖昧です。でも、FM局で70年代から現場を知っている唯一のディレクターでした。東京には他に民放Fmはなかったですからね。
80年代に「ひとつぶの青春」という番組があったんですよ。提供はグリコ。千春さんがやったり聖子さんが担当していた人気番組。あの番組の構成をやらないか、と言ってくれたのがレギュラーの最初。
その時のパーソナリテイ―は田原俊彦さん。アイドルっぽくない番組をやりたい、ということでした。僕は笹山さんに言われたから、という感じでしたから、原稿だけ渡して、スタジオに行ったことがなかったんです。お付き合い、という感じ。
86年かな。パーソナリテーが美里さんになってからは必ずスタジオに行ってました。彼女は、ラジオへの熱がすごかったですからね。片手間に仕事ができる女性ではなかった。おかげで、美里さんとは、その頃からの戦友みたいな感覚があります。
一番大きかったのは、89年に新宿に日清パワーステーションがオープンした時ですね。Tokyo Fmで「日清パワーステーション」というライブ番組が始まったんです。その番組でしゃべるようになった。ラジオのレギュラーの最初でした。
だらだら書いてますね。思い出しながら、です。まだあるな。事業部の責任者だったこともありますね。一番忘れられないのが、CHAGE&ASKAの95年の「アジアツアー」。彼のスポンサー探しがなかったら、成功したかどうか。
拓郎さんのハワイの50歳バースディ―ツアーを実現させたのも彼ですね。人がやらないことや無理だと思われることをやろうとする。MXに行ってからは年に何回かみんなでお酒を飲むだけになりましたけど、会うと楽しいさばけた人でした。
6年前か、肺ガンを宣告されてからもお酒を飲んでたんじゃないかな。弱気を見せたことがない。「おう」とか挨拶をしながら病状をあっけらかんと話してくれる。東京の人じゃなかったですけど、曲がったことが大嫌いで義理堅い、江戸っ子のような人でした。
制作の現場の人じゃないのに、MXテレビの小室等さんの番組は自分でやってましたからね。去年、日本青年館で六文銭のライブがあった時、「医者には絶対にやめてくれと言われた」と完全防備で来ていたのが、最後の姿になりました。
同世代、同時代、一番熱っぽい時期代を共有していた人がどんどんいなくなります。お別れ会も出来ない。うーん、寂しい。いろんな人に好かれてましたから、僕だけじゃないでしょうけど。ご冥福を祈ります。合掌。