昨日の続きということになりますね。さっき読み直して、言い過ぎたかなと思ったりもしたんで。こういうの多いでしょう。書きっぱなしですから、後で反省することしきり、という感じなんです。
インタビューを否定しているみたいに思われると不本意かなと。自分でインタビュー番組もやってるわけですから、自分を否定したことになるかもしれないな、と。もう少し言葉を加えないと独りよがりになるなあ、と思いました。
そう、インタビューを否定しているわけじゃないんです。その人がどういう人かとか、どんなことを考えてるかはインタビューしないとわからないわけです。それは新人であれスーパースターであれ変わりませんね。
そういう意味ではジャーナリズムの基本であり最終的な、普遍的な形ですね。でも、それに頼りすぎていないだろうか、ということが言いたかったんですね。何でもかんでもインタビューで済ませてしまう。
音楽メディアは特にそういう傾向が強いんじゃないでしょうか。本人が出てればいい。どんな話をするかとか、どういう扱いをするかが二の次になってないだろうか。読み応えのあるインタビュー、内容のあるインタビューが少なくないだろうか。
そして、インタビューした人は、そのインタビューをどう思ったのか、どう受け止めたのだろうとかが伝わってこない。「細野晴臣と彼らの時代」は、インタビューで聞いた話を的確に使って「物語」を紡いでいる。そこに感心したわけです。
というような説明をしておかないとな、と思いました。来月、SEKAI NO OWARIのベスト盤が出るんで、2015年にロッキング・オンから出た「SEKAI NO OWARI」という本を読んでたんです。
この人じゃないとここまでのインタビューは出来ないだろうな、という本。いいインタビュー本でした。いいものもそうでもないものもある。何でも同じですね。というわけで、昨日の補足でした。
セカオワ、インタビューしたことがないんです。でも、こういうインタビューがあれば、自分で聞かなくてもいいや、と思える本でした。曲ですね。SENAI NO OWARIの去年の曲、「サザンカ」。
好きな曲です。”いつだって物語の主人公は笑われる方だ 人を笑う方じゃない”というところがいいでしょ。みゆきさんの「ファイト!」の”戦う君のことを戦わない奴らが笑うだろう”に匹敵します。じゃ、おやすみなさい。