夕方、ネットで知りました。その後、共同通信から追悼原稿をお願いてきますか、という連絡をもらいました。当事者や関係者がたくさんいらっしゃるのに「僕でいいんですか」とお聞きしたら「客観的な方が」ということでお引き受けしました。光栄なことです。
かなりビビりますよね。史上最大の売れっ子作曲家。ヒットメーカー。ヒット曲の数や売り上げ。どれをとっても比類なき記録の持ち主。現役活動期間50年以上。僕の手に負える人ではありません。
ただ、「客観的」という意味では、その通りかなと。70年代に”あっち側・こっち側”という言葉があったことは、何度か書いてますけど、筒美さんは”あっち側”そのものような方でしたからね。
”あっち側”というのは芸能界、”こっち側”というのは、フォークやロックの世界。もっと単純化してしまうと”職業作家”対”シンガーソングライター”という構図。達郎さんは、「仮想敵」という言い方をしてました。
筒美さんは、ポリドールレコードの洋楽部のデイレクターだったんですね。その頃は、デビュー前のビートルズがコーラスをやっているトニー・シェルダンとか、ガス・バッカスの「恋はすばやく」とか、僕らが思春期に聞いていた曲を手掛けてます。
僕が存在を知ったのは、GS。ヴィレッジ・シンガース、ジャガーズ、オックスですね。「バラ色の雲」「マドマゼル・ブルース」「ガールフレンド」かな。すぎやまこういちさんとか鈴木邦彦さんとかにはないポップさを感じました。
でも、何と言っても「ブルーライトヨコハマ」と「また逢う日まで」でしょうね。ソウルっぽかった。ブラックミュージックな感じだった。フィラデルフィア・ソウルというやつですね。
つまり、洋楽的な歌謡ポップスを一手に引き受けていた。その数3000曲ですってね。70年代のシンガーソングライターは、「筒美京平には書けない曲」が大命題になった。「仮想敵」ですよね。
実は、自分たちが聞いてきた音楽の先輩でもあったわけですが、当時の業界はそういう感じじゃなかった。作詞家になった松本隆さんが、「歌謡界に身を売った」とバッシングされた時代です。
その松本さんにいち早く注目して、太田裕美のデビューで起用したのが筒美さんだったわけですからね。ユーミンが「いちご白書をもう一度」を書いた時、「筒美さんに褒められた」と嬉しそうでした。
というようなことを書いたわけですが、ボツになるかもしれません(笑)。30年くらい前に一度だけインタビューしたことがあるんですが、今思えばつたない、ひどいインタビューでした。
そういうことばっかり。もう取返しはつかないわけですからね。こうしてやり残したこと、心残りなことが積もって行く。そして、時の流れの中に消えてゆく。これも2020年の一つの記憶になってゆくんでしょう。
急な原稿で明日の「LEGEND FORUM」は二週録りが一週になりました。しょうがないです。合掌。ご冥福をお祈りいたします。音楽は永遠です。曲ですね。ジャガーズ「マドマゼル・ブルース」を。じゃ、おやすみなさい。