今日も暑かったです。屋根のあるところや地下、そして冷房の効いている室内を辿って行く。日のあたる場所に出られません。どうにかこうにか一日を終えました。今日も無事に過ごせました、という言葉がそんなに大げさな感じがしません。
8月15日。終戦記念日。75回目。あの時を知っている人は数パーセントしか残っていない。先月なくなった母もそんな一人でした。彼女にとってもこの日は特別な日だったようです。前に少しだけ書いたことがありましたけど、父も母も大政翼賛会だったんです。
二人とも情宣部、というのかな。宣伝部。親父はその前、新聞記者でしたからね。オフクロは新卒のタイピスト。今でいえば社内結婚ですね。二人を結び付けたのが野球。後楽園球場に高射砲の陣地があったころに野球を見に行っていた。
母がなくなった後に遺品を整理していたら、親父が戦前に自分で作った「職業野球」の新聞記事のスクラップが出てきたりしました。プロ野球になる前ですね。彼は、戦後、野球にしか興味を持てなくなって、「ベースボールマガジン」とか「ホームラン」とか「野球界」という雑誌の編集をしてました。
野球雑誌編集者の後、野球記者になったんですが、最後まで担当でもない広島カープに肩入れしていたのは、その頃の贖罪の意識もあったんだろうなあ、と思ったりしてます、という話は本題ではないですけど。そういう二人ですから、8月15日の玉音放送のことは事前に知っていたんだそうです。
大政翼賛会というのは、ご承知のとおり、日本を戦争に駆り立てていた総本山ですからね。オフクロは、その放送があることを知って部内の書類を全部焼いた、と言ってましたね。占領軍に押収されるとまずい、と思ったんでしょう。
でも、親父は戦争のことについては一切語らなかった。自分でも忸怩たるものがあったんでしょうね。若い頃、親父には戦争責任がある、といって険悪な空気になったりしたこともありました。「お前に何が分かる」というやつですね。
なんですが、実は、知り合いの坂本邦夫さんというノンフィクション作家が「紀元2600年の満州リーグ」という本を送ってくれたんです。戦時中、満州で行われた日本プロ野球のリーグ戦があった。その経緯を追った渾身のノンフィクション。彼が親父の取材をしていたんです。
親父がなくなる前に最後に会った家族以外の人間が彼だった。その本がようやく出来上がった、ということで送られてきたのがオフクロの葬儀の二日後でした。その中に、戦争について、家族にも口にしたことがないような親父の言葉が載ってました。
「大政翼賛会の時、東京駅に戦没者の遺骨を迎えに行くんです、あれは本当につらかった」という一言だけなんですが、それが生前の親父が最後に残した公の言葉だったことになるんだなあ、と思って読ませてもらいました。
戦争を遂行する側になってしまった人間の複雑な心境、というのかな。青臭い息子に分かったようなことを言われるのはきっと耐えられなかったんだろうな、と思いました。戦後、ずっと野球にしか興味を持たなかった、持てなかった。
なくなったのは3月だったんですが、最後まで春のキャンプの話を話をしていたとオフクロから聞きました。先週、納骨したばかりですからね。彼岸で二人で迎える初めての終戦記念日になるわけで、今日はどんな話をしたんだろうな、と思ったりしておりました。
というわけで、曲ですね。何でしょうねえ。満州リーグの話が出ましたからね。戦時中、軍歌が書きたくないとジャズが禁止された日本を離れて上海でジャズをおやりになっていた元「上海バンスキン」の作曲家、服部良一さんが書かれた曲「蘇州夜曲」をASKAさんで。
服部良一さん、J-POPの父。息子さんの服部克久さんも今年なくなりました。戦没者の方々ともどもあらためて合掌です。じゃ、おやすみなさい。