タイトルが重いな、と思いつつですが。今日は長崎の被爆記念日ですし、15日には終戦記念日もあります。そういう文字を目にする機会も増えそうです。でも、そういうシリアスなことを書こうとしているわけじゃありません。
納骨、無事に終わりました。暑かったです。古いお寺なんで冷房が入ってない。換気をよくするために四方を開け放してはいたんですが、風が入ってこない。扇風機だけ。喪服の上衣は失礼して脱いでました。ご住職も気の毒に思ったのか、お経もあっという間でした。
でも、こういう状況ですからね。リモート墓参とか言ってる時に、こうやってお寺に親族が集まって納骨できることに感謝しないといけないなあ、と思いました。墓石を動かして中を見せてもらって、そこに遺骨が納められるというシーンを共有する、というのはやっぱり意味があります。
というようなことは若い頃には考えもしなかったですからね。この間も書きましたけど、「家」「家族制度」に対しては距離を置いていた方ですし。「先祖代々」みたいな発想には抵抗感を持ったこともありました。変わりましたねえ。
そう思わせた大きな要因は、仏壇と遺骨、ですよ。その二つが家に来てからですね。特に遺骨ですね、二つ並んだ置かれていた時に存在感というのかな。そこにそれがあることで何かが語られている。問わず語りで何かを伝えているように感じました。
何なんでしょうね。「骨」というものへの畏敬なんでしょうか。そこにあるだけで手を合わせくなるというか、声をかけたくなるというか。「おはよう」とか「おやすみ」とかね。そこに「いる」感じ。そういう感覚になったのは生まれて初めてですね。
納骨して帰ってきて、仏壇だけを見た時に、そばにいるはずの人がいない、みたいな感じがあったんです。あれは不思議ですね。「形」なんでしょうか。もし、あの物体を「骨」ということを知らなかったらどうなんだろう。何も感じないんでしょうか。
そこから先はオカルト的になるんでやめますが。でも、セミが鳴いて夏の太陽が照り付けている。小さなお寺なんで、昭和の日本そのもののようでした。こういうものは失いたくない。リモートは出来ればやらない方がいい。あれは「新しい生活様式」とは言えない気がします。
それにしても、今週はとんでもなく暑いみたいです。風情とか風流とか言ってる場合じゃなさそうです。危険な夏をどう乗り切るか。過酷な夏です。というわけで曲ですね。今年40周年。佐野元春さん、「ボヘミアン・グレイブヤード」。ボヘミアンのお墓。じゃ、おやすみなさい。