「パチパチ」「シンプジャーナル」と並べば、この雑誌について触れないわけにはいきません。「ロックンロール・ニューズメーカー」。英語表記は「R&R NEWS MAKER」。創刊は88年。「パチパチ」よりも後発。80年代後半のバンドブームに乗って創刊されました。
出版はビクターブックス。でも、途中からビクターが出版を縮小するというんで、版元がぴあに変わりましたね。僕が書くようになったのは90年代入ってからですね。一番多く書いたのが氷室さんでしょうね。
雑誌によって書く対象が違いました。それは雑誌とレコード会社のシフト、みたいなものですね。雑誌には、レコード会社の担当編集者がいて、それぞれのバンドやアーテイストに特定の書き手が決まってる。大きい雑誌は、そこでしか仕事をしないライターもいます。
後発の雑誌は、そこに組み込まれてない書き手を起用するということになります。僕はどこに行っても外様みたいなもんですから、比較的スタンスが自由。例えば浜田さんは「シンプ」で氷室さんは「ニューズメーカー」みたいな動き方になってました。
80年代と90年代はシーンが変わりましたからね。BOOWY、REBECCA以降のバンドが多くなった。そして、そういう人たちのスタッフは、他のバンドのことを書いているライターは嫌がるということもあったり。そういう中で氷室さんを書くようになりました。
一番多く氷室さんのことを書いたのが「ニューズメーカー」ですね。表紙や巻頭が多かったんで文字量もかなりある。書いていて楽しかったですね。自分の居場所を見つけた、みたいな感じになったのは「ニューズメーカー」があったからかもしれません。
LUNASEAのことも結構書きましたね。SOPHIAも書いたかな。でも、氷室さんが群を抜いて多かった。編集長が田中学、呼び捨てだったりして(笑)。いいよね、90年代以降、一番親しい編集者でしたから。一番一緒に飲んだ編集者ですね。
第一印象は最悪だったんです。BUCK-TICKの武道館を見に行った時、関係者席で椅子に足をあげて騒いでいる奴がいて、何だ、こいつ、と思ってたんです。「ニューズメーカー」の編集長を紹介するよと言われて会いに言ったら、そいつだった。
大酒飲みで、ま、アルコール抜きではいられない。ただ、雑誌には情熱を持ってる。昔の編集者気質を持ってる。版元が変わったりという荒波にもまれたこともありますね。大真面目によく議論しました。「音楽雑誌はどうあるべきか」とかね。
でも、飲みすぎでしたね。肝臓の数値がどんどん悪くなって、500くらいになったのかな。「そんなことしてると死ぬぞ」と説教したりね。編集部からそのまま入院したこともありました。雑誌は2007年一杯で休刊になってしまって、彼は独立して編集をやってったんです。
最後はラルク・アン・シエルのファンクラブの雑誌を作ってて、ハワイのライブの取材に行ってる時にワイキキのホテルから転落してなくなりました。酔っぱらってたんだろうなあと思いました。いい奴でありました。
そうだ、「ぴあ」にいた時に、2003年の拓郎さんが肺がんから復帰した時のことを書いた「豊かなる日々」の編集をしてくれたのも彼ですね。でも、「ニューズメーカー」がなかったら、氷室さんを書くようにはなってなかったでしょうから、感謝してもしきれません。
妙な例えですけど、「軟派」の「パチパチ」、「硬派」な「ニューズメーカー」みたいな違いがありましたね。何と言っても忘れられないのが、氷室さんの93年のアルバム「Memories Of Blue」が出た時のロングインタビューですね。
あれが最初のロングインタビューじゃないかな。この一回だけかもしれない、という関係だったんで、そうなってもいいから真正面から行こうと。遠慮も忖度もないインタビューにしようと思ったのが良かったんでしょう。
場所も覚えてますね。赤坂の全日空ホテルだ。その後、マネージャーのZさんから、氷室さんが「話したいことを全部聞いてくれたと言ってたよ」と言われて、ホッとした記憶があります。あのインタビューがなかったら、その後の取材もなかったでしょうね。
というわけで「音楽雑誌遍歴、その3」、でした(笑)。まだあるな。「月刊カドカワ」と「B・PASS」か。それはまた。曲ですね。氷室さん、「Memories Of Blue」の中の曲。シングルは「KISS ME」でしたけど、「YOU’RE THE RIGHT」を。
BOO/WYとは違うビート。「BOO/WYを超えた」という話をしていた時に「セールス」と「ビート」という二つの意味がありましたが、後者の曲ですね。氷室さん、今年の10月で還暦。9月に大阪で展示会があります。出来るといいなあ、と思ってます。じゃ、おやすみなさい。