別に忘れているわけじゃないですけど(笑)。昨日「パチパチ」について書いて、それで終わりというわけにもいかない。音楽雑誌という話をするのなら、やはりこの雑誌について触れないといけないでしょう。古くは「新譜ジャーナル」ですね。
いつから「シンプ」になったんだっけ。89年に休刊になった時にダイジェスト版が出て、どこかにあるはずなんですが見当たりません。創刊は68年ですから、「パチパチ」よりも古い。まあ、何も「パチパチ」を基準にする必要もないわけですけど。
日本の音楽雑誌はそれまでは洋楽のものばかりでしたし、洋楽と邦楽を扱う雑誌としても「ニューミュージックマガジン」と「ヤングギター」が69年。そういう意味では「新譜ジャーナル」はかなり早かったということになりますね。
ヤマハの「ライトミュージック」という雑誌もありましたね。”ライトミュージック・コンテスト”が67年だから、あの雑誌も古いか。でも、洋楽中心だった記憶があります。やっぱり「新譜」の方が老舗ということになりそうですね。
ソニーマガジンの「GB」も元々は「ライトミュージック」のスタッフが中心でした。今調べたら「GB」の創刊は77年。「新譜」の方がはるかに早かったんですね。だんだん思い出してきた。編集長は塚原さんだ。その前が鈴木さん。塚原さんの次が大越さんですね。
大越さんになってから塚原さんは編集プロダクションを主宰してましたね。名前、なんだっけなあ。そう「ブルーリバー」だ。覚えてるもんですね。と言っても、僕は放送の仕事が長かったし、編集者として自分で雑誌を持ってましたから音楽雑誌に書くようになるのは、割と遅いんです。
音楽ライターという意味ではかなり後発。だからそんなに年と思われてなかったのかもしれません。最初に書いたのはどこだったか、よく覚えてない。そう、電波新聞社という出版社から出ていた「月刊オーデイオ」だ。雑誌のレギュラーの最初ですね。
ただ、近しかった、という意味では「シンプ」ですね。大越正実さんですね。自分の好みのはっきりしていた編集長。巻頭のメイン記事を自分で原稿を書いてしまう。拓郎さんとか浜田さん。なかなか書かせてもらえませんでした。
しゃくに触るんで「巻頭を編集長が書いてる雑誌は潰れるよ」と嫌味を言ってたこともありました。ほんとにそうなるとは思いませんでしたけど(笑)。あの雑誌の特集ページを編集していたのが今、浜田さんのファンクラブの機関誌を作っている古矢さんですね。
「パチパチ」は、女性ライターが多かったし、編集者もそうでした。仲間意識は「シンプ」の方が強かったかな。自由国民社ね。思い出しましたよ!。「新譜」の前に「深夜放送ファン」という雑誌があったんだ。僕は「セイ!ヤング」でしたからね、あの雑誌が最初か。
とりとめのないことを書いてますが。「思い出の扉」が開いてしまってるんです。ふっとした時にその頃の友人や関係者の顔が浮かんでくる。「みんなどうしてるのかなあ」という気分になる。これもライブがないからでしょうね。
そういう話、増えてくると思います。ステージのMC風に「一緒に振り返ってみないか」というのも変か(笑)。ということで、「シンプジャーナル」で一番印象深い記事、なんだろうなあ。甲斐バンドの解散ツアーか、浜田さんの「J.BOY」ツアーのレポートかな。
編集部の女子が浜田さんの「遠くへ」の中の”赤いヘルメット”をバイクのヘルメットと思ってたんですよ。そのことを書いた覚えがありますね。「えー、バイクじゃないんですか」と言った彼女は、今、サッカーライターで活躍してます。コロナでどうしてるんでしょうね。ということで「遠くへー1973年・春20才」を。じゃ、おやすみなさい。