連日の今野さん追想にお付き合いいただいてありがとうございます。お通夜が終わりました。彼は、僕と同じフリーランスのデイレクターでしたからね。会社の上司とか部下、という関係で来られている方が少なかったんでしょう。思いのこもったお通夜でした。
みなさん、ご自分の思い出がある。お別れする理由がある。それぞれの人生の中で忘れられない場面がある。思い思いにその記憶を持ち寄っているという感じでした。もちろん、僕もその一人。ラジオという舞台で一番長くお付き合いした人間としての感慨とともにです。
知りたいことがありました。彼が土曜日の午後、大宮のNACK5の「J-POP TALKIN’」のスタジオ作業を終えてから向かったというクラブでどうだったのか。どんな状況で意識を失ったのか。彼にとってのクラブというのがはどういう場所だったのか。
その時にご一緒だった方達にお会いできたのが良かったと思いました。DJの後輩は、昔からの友人と楽しく踊って席に戻ってきて、倒れてしまった。苦しむ間もなかったんだそうです。自分でも何が起きたか分からないままだったんじゃないか、と言われてました。
その証拠に息を引き取った時の彼の顔には笑みが浮かんでいたんだそうです。その話をお聞き出来ただけで行ってよかったと思いました。棺の中のお顔も苦しんだ気配は全くなかったです。言葉が適切かどうか分かりませんが、楽しさの絶頂で終わったのかもしれません。そういう終わり方もあるんだなあ、と思ったりした次第です。
やっぱり、彼の中で一番心を開けたのがそういう場だったんでしょうね。彼が、ラジオのディレクターになる前、つまり、ディスコのDJだった頃の話を色々聞けました。当時、横浜で最も人気のあったというディスコ、スーパースターの店長さんの話は特に興味深かったです。
彼は、当時、80年代前半、横浜で最高のDJは間違いなく今野さんだった、と言われてました。音楽のジャンルを問わず幅広い選曲と客席への気遣いと盛り上げ。そのフロアーで乗っているお客さんとそうではないお客さんをいつも意識している。
独りよがりにならない、エンタティンメントとしてのDJというんでしょうか。今のクラブはもう知りませんが、いい時代のDJということだったんでしょうね。いつも前向きで明るかった。その辺は、その後の仕事ぶりにも流れてた気がします。
何と言うのかな。決して優等生ではなかったんだけど、高校の時の成績が全北海道で8番だったとか、一旦は東芝に就職が決まって、研究所に二年間通った。でも、やっぱりデイスコ皿を回したいと、店長さんに相談して会社員を捨ててDJになったという話もありました。実は成績優秀な学生でもあった。ただ、音楽から離れられなかった。
何ていうんでしょう、どなたの話を伺っても彼はずっと”青春”だったんだなあ、と思います。デイレクターになってからもそういう気持ちを失わなかった。語学教師というのも、そういう気分を味わいたかったからなのかもしれません。
マービン・ゲイが死んだときに朝まで飲み明かした話は良い話だなあと思ったり。短い時間でしたけど、僕の知らなかった一面を知ることが出来ました。こんなに長い時間彼と一緒に仕事が出来たことに感謝しつつ、誇りにしようと思います。
さて、明日、告別式で出棺を見送って、僕も福岡に向かいます。曲ですね。みゆきさん「誕生」を。じゃ、おやすみなさい。