驚きました。衝撃でした。どういうことなんだ、こんなことがあるのかという晴天の霹靂。かなり落ち込んでます。NACK5「J-POP TALKIN’」のディレクター、今野悦夫さんがなくなりました。今日です。正確には昨日の夜中、ということになります。
斉藤和義さんのインタビュー収録があったんですが、時間になってもスタジオに現れない。どうしたんだろうと思っているうちに本人も来てしまった。何かあったのかと電話してみたら、ご家族の方がお出になって「なくなりました」と教えてくれました。
冗談でディレクター抜きでやろうか、と言ったりしてたんですが、冗談でなくなってしまいました。でも、そんなこと言ってる場合じゃなくて、ともかく収録を終えて、改めて状況を聞きました。突然だったようです。
今野さんは、僕が2001年にTOKYO FMでレギュラー番組を持つようになった時に出会ったディレクターなんですね。それ以来のお付き合い。ちょうど20年目ということになります。そんなに長く一緒に仕事をしているのは彼だけです。
僕だけじゃなくてフリーランスは恒常的な人間関係というのはありません。その都度、その仕事での関わりというのが基本です。2003年に始まったNACK5の番組は、そういう意味でも異例の長さになるわけで、ずっと今野さんと一緒でした。
彼は、北海道の北見出身で高校の時に洋楽の洗礼を受けて上京、学生時代にデイスコのDJになるんですね。大学は神奈川大学、特待生。学費免除。そこからラジオのデイレクターに転身、J-WAVEの「グルーブライン」も手掛ける敏腕デイレクターでした。
でも数年前から日本語教師の資格を取って、ラジオのデイレクターと日本語教師の二足の草鞋。元々英語が得意でTOIECも900点以上。バイリンガルの日本語教師の仕事もしてました。アメリカの大学に教師研修に行ったりもしてましたね。
アメリカの雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」を原語で読んでたりね。大学で英語教師もしてました。洋楽は僕より詳しい。ディレクターとして放送文化大賞を受賞したこともありました。それでいて元ディスコのDJ。かなりの遊び人。さばけた男でした。
そういう人ですから、インタビューの編集も的確でポイントを掴むのがうまいんです。僕は彼が編集したものに原稿を加えるという形で台本を作ってました。多分、約20年間、彼の編集に指示したことも難色を示したことは一度もなかったと思います。
たいていの場合はそうじゃないんです。僕の方でこことここをピックアップしてとか、こことここを生かしてとかお願いすることが多い。でも、彼とやってきた番組でそれをしたことはなかったですね。彼が面白いと思ったところを編集してもらうという形でした。
つまり、信頼してました。NACK5でやってきた番組は彼と二人で作ってたようなものでした。それが突然です。昨日、大宮のスタジオで阿部真央さんのインタビューの完パケをしたばかり。「じゃ、明日、よろしくお願いします」と別れたばかりでした。
昨日、彼はその後、後輩のDJとクラブに行ったそうなんです。以前は底なしの酒飲みだったんですが、数年前から一滴も口にしなくなった。昨日もウーロン茶を飲んで盛り上がっていて、突然、倒れてしまった。救急車で運ばれて、そのまま意識が戻らなかった。
動脈解離だったそうです。あんなに元気だったのに、という例ですね。僕より一回り下、61才。新しい道に踏み出したばかりだったのに。こんなことってあるんだなあ、と今も信じられない気持ちです。
でも、最後の場所がクラブだったというのが、彼らしいのかなあと思ったり。ラジオのディレクターと語学教師というのは両極みたいなところもあるでしょうし、ストレスたまってたんだろうなあと。彼の原点であるクラブで最後を終えた、というのが何か象徴的な気もしてます。
一番長い仕事上の友人を失った。ラジオの戦友のようなパートナーが逝ってしまった。そんな呆然とする夜です。合掌、です。曲、何でしょうねえ。曲の代りに長い長い黙祷。じゃ、おやすみなさい。