何を書いてるんだ(笑)。年賀状を書いてましたからね。何か一言添えるとしたら、どんな言葉があるんだろうと思っていて、浮かんだのが結局、これ。今年も友人、知人の悲しい知らせが色々ありました。ミュージシャンもしかりです。
そこまでいかずとも、しばらく噂を聞かないなと思ったら体調が思わしくないとかね。そういう年齢なんだなあ、ということを思い知らされた年でですね。今年に始まったことじゃないか。もうここ数年そうですね。
昨日、ネガテイブなことばっかり書きましたけど、そんなに悲観的な年でもなかったんですって、昨日とずい分違うよね(笑)。そういうもんです。一晩寝れば何かが変わる。そうじゃなければ生きていけません。
どんなに色んな事を忘れてもやっぱり一番大切なことは残ってる。忘れるという篩にかけられてると思えると楽かもしれませんが。篩の目がだんだん大きくなってほとんどのことが忘れられてしまう、というのが老化でもあるんでしょうが。
ということは年をとってからの色んな事はたいして意味を持ってないということなのかもしれない、というとやっぱり変か。僕は一体何を書いてるんでしょう(笑)。2019年、後二日だというのにね。もっと大事なことは書けないのか。
話を戻して、と。今年の出来事で大きかった二つのこと。一つはインフルエンザでしょうね。生まれ始めてのインフルエンザ。それ自体はすぐに治ったのに、その後に咳喘息になった。そして、咳が止まったと思ったら声が出なくなった。
長かったですねえ。何か月だろう。丸三か月は思うように出なかったんじゃないでしょうか。このままラジオは出来なくなるんじゃないかという恐怖感もありました。お聞き苦しい時期が続いたことをお詫びします。
咳が止まらない時に、お医者さんから子供の頃にやった結核を指摘されたのも妙な感覚でしたね。子供の頃に小児結核を経験して、直ったんだけど、老人になって免疫力が落ちて再発する例が増えている。俺じゃん、と思ったりしました。
ミュージシャンでも声の不調でライブを飛ばす人も少なくない年でした。気候の変化も大きいんだと思いますが、やっぱりそういう年齢なんですよ。いつ何があるか分からない。ここから先、残り時間が大切になってくる。
大きかった二つ目。台湾ですね。国立精華大学。ライブリーが正式に決定して、来年5月にオープン。しかもその前日から7月一杯、展示会を開いてくれる。海の向こうで自分の本が何等かの形で紹介される。夢みたいなことです。
でも、その仲立ちをしてくれた恩人、新堀洋二さんがなくなってしまった。こういう奇遇というのがあるのか、という出会いでしたからね。僕の書いた浜田さんの「陽のあたる場所」に出てきた人と、35年経って初めて逢うことになりました。
79年の山口大学の学園祭で浜田さんを呼んで、朝まで語り合った、ということを青春だけじゃなく、生涯の誇りにしていた人。彼の二つの会社の名前も浜田さんの曲名でした。そうですね、台湾のライブラリーは浜田さんが取り持った、ということになりますね。
彼が癌になって一時退院して見に行ったのが、去年の浜田さんのツアー「Welcome Back to the 70’s」だった。彼が病床で最後までギターで歌っていたのが「路地裏の少年」。ライブを見ながらずっと号泣してたと言ってました。
わずか3年というお付き合いだったんですが、そういう意味ではこの10年で最も劇的な人物になりました。出会い方も、そして別れ方も、です。こんな運命的な出会いがある、そして、こんな風にいなくなってまうこともある。
今度、ライブラリーの写真をお見せしますね。今までここで写真が載ったことはありませんから、初画像。僕は物書きだから写真には頼らない、と格好つけてましたけど、やり方も知らなかったわけです。でも、是非、見て欲しいと思います。
というわけで、昨日よりも少しはましな中身になったかもしれません。今年最後の追悼の辞を、改めて彼に捧げます。曲ですね。彼の愛唱歌だった浜田さんの「家路」を。どんなことがあっても元気でいましょう。じゃ、おやすみなさい。