僕らから言えば日台友好、こちらの人から見れば台日友好、ということになりますね。それぞれの側から両国の交流、というとかなり大袈裟になりますが。何だろうな、最近、物事がすぐに大袈裟になるのは年のせいでしょうね。
物事を簡単に済ませられない。一つのことに関して、こういう意味があるとか、こういう見方もあるとか、こういう問題が起きたらどうすんだとか、色んな事を考えてしまって、それで疲れてしまう。そういうことって、ありませんか、って誰に訊いてんだ(笑)。
何の話だっけ。日台友好だ。そんなに大げさにならくてもいいから、自分のCDが何かの役に立てばいいな、ということで始まったCD寄贈プロジェクトって、ほら、すぐにそういう言葉を使いたがる。そんなプロジェクトなんてないじゃん(笑)。
送りたい、という人がいて、間を取り持ってくれる人が現れて、受け取りましょう、と言ってくれる大学が現れた、というそれだけのことであります。そして、途中に出て来た様々な問題を解決することに協力してくれる人も見つかった、ということで物事が進んでおります。
まだ途中ですからね。大学名は僕の方からは言わない方がいいとは思うのですが、台湾の国立大学です。そこの方達との食事会ミーテイングがありました。夕べ、ね。かなり気取ってみました。大げさというより気取りです。メシ会というよりいいでしょう。
で、そこでこれは名前を出してしまっていいと思うのですが、KENYUさんという三線奏者の歌い手さんと会いました。大学の方と懇意で、是非、紹介したいということで参加していたんですが、面白いなあと思ったのが、彼がBEGINと親しくて一緒にライブをやったことがある。
今は沖縄に住んでいる元THE BOOMの宮沢和史さんとも交流があるという人でした。台湾と沖縄、近いですからね。そして、それだけじゃなくて、とっても近しい歴史がありました。台湾が1949年から87年まで戒厳令が敷かれていたという話は前にも書きました。
その間、日本の娯楽は禁止されていた。彼は子供の頃、当局の監視を盗んでドリフの非合法ビデオを見ていた、と言ってましたからね。戒厳令の間はそれだけじゃなくて、台湾語も禁止されていた。つまり、蒋介石さんというのは中国大陸から来た人ですからね。北京語を強要した。
沖縄にもそういう歴史がありました。日本政府は沖縄の方言を禁止していたんです。学校で方言を使うと「方言札」という札を首からかけさせられた。「すみません、もう使いません」という罰ですね。そういう二つの歴史が音楽で出会っている。
彼は、日本に留学していて言葉が堪能なんで、そんな話になったりしました。なかなか深いでしょう。友好の夕べ、ですからね(笑)。でも、台湾の方とそんな風に話をするようになるとは、何年か前は思いもよらなかったんです。
そうか、この話は書きましたね。間を取り持ってくださったのは新堀洋二さんという方で、彼は、今年になってなくなってしまった。彼とのご縁は浜田さんのことを書いた「陽のあたる場所」だった、という話。自分で書いておきながら忘れてる。
でも、彼は志半ばでこの世去ってしまいましたけど、残された仲間がその遺志を継ごうとしています、という話なんです。いずれ詳しい話は書けると思います。そうか、ここまで書いたら、この曲しかないですね。浜田さんの「家路」を。
何でかは新堀洋二さんのことを書いた回を参照してください、って偉そうですが。
https://takehideki.exblog.jp/27533842
じゃ、おやすみなさい。