馴れ馴れしいね(笑)。昔、ニッポン放送でやっていた「あおい君と佐藤くん」みたいって、お分かりになりませんね(笑)。尾崎豊さんと米津玄師さん。僕の中では印象がかなり重なってるんです。
尾崎さん、命日でしたねえ。忘れてました。そう、忘れていることに何だかしみじみしてしまいました。数年前までは覚えてたんですよ。いつから思い出さなくなったのかなあ。遠くなったなあ、という感じ。92年4月25日。そうか、17周忌か。
あの日のことは覚えてますね。永井真理子さんの取材でミュージカルステーションにいたんだ。始まる前に彼女のマネージャーが「尾崎が死んだらしいですよ」と教えてくれました。取材が終わって「パチパチ」の編集部に電話したら土曜日なのに編集長がいて、そのまま朝まで追悼と言って飲み明かしました。
BAYFMで生放送をやっている時は4月最終週に特集をやるようにしてたんですが、2016年に番組を降りてしまって、その辺から遠ざかってるんでしょう。FM COCOLOの「J-POP LEGEND FORUM」一カ月特集をやったのが2015年の秋だ。生誕50周年をやりましたね。
その時のゲストは、尾崎さんのことを書いた「未成年のままで」の著者、落合昇平さん、マネジメントのマザーの佐藤庄平さん、東海ラジオで尾崎さんの番組」「誰かのクラクション」のデイレクターだった加藤与佐雄さん、それと息子さんだ。
加藤さんは尾崎さんがニューヨークに住んでいた時に一緒にアパートに行ったんですね。懐かしいです。でも、どっか遠い。何でだろうなあ。もう僕の中で「15の夜」も「17歳の地図」も遠くなってるのかもしれません。
彼のことを考えていて、年取ったなあ、と実感しました。どうなんだろう。曲を聴けばまた蘇ってくるのかな。平成最後という原稿は何本か書きましたけど、彼は思い浮かばなかったんですよ。昭和の人になるんでしょうか。
思い出さなくなった要因の一つに米津さんがあるようにも思って、こういうタイトルになりました。今の彼はもうそういう感じじゃありませんけど、デビューした当時、アルバムだと「YANKEE」を聞いた頃かな、彼のことを「ネット世代の尾崎豊」と勝手に言ってたことがありました。
あの頃の米津さんの曲の中にあった世間や共同体に対しての優しくて繊細な抗い方、そこからの脱出願望、逃走願望みたいなものが尾崎さんと重なったんですね。でも、米津さんにはインターネットがあった。その折り合いのつかなさが作品となって開花して行った。
もし、尾崎さんの時代にネットがあったら、ああいう結末は迎えなかったでしょうし。カリスマとして虚像になる前に実像の作品化も出来たでしょうし。というようなことを感じてました。
僕の中での二人の共通点。思い出しました、詩人のアルチューヌ・ランボー。というような話は面倒になるからやめます(笑)。そこまでの知識もありません。浅薄なイメージだけ。分かったようなことは言わない方がいい、ってもう手遅れかも(笑)。
というわけで、命日、教えて頂いてありがとうございました。平成が終わるということは昭和も完全に終わるということなんだなあと思いました。”尾崎豊”は令和になってどんな風に記憶されるんでしょう。
さて、曲ですね。尾崎かなあ、つい呼び捨て(笑)。でも、二人がつながっていると思わせてくれた最近の曲。米津さんの「TEENAGE RIOT」を。「10代の暴動」ね。じゃ、おやすみなさい。