人のうわさも四十五日、訃報の余波は二三日。裕也さんのお別れ会が行われたのが4月3日、でも、もう新聞やテレビではあんまり見なくなったようです。と言ってもワイドショーとか全然見ないんで、もしそうじゃなかったらごめんなさい。
お別れ会は、仕事があったんで行かなかったです。というか、何度かインタビューもしてますけど、70年代の終わりから80年代前半に集中してましたし、もう知っている関係者もいないでしょうし、一人で追悼させて頂きました。
僕にとっては、彼が樹木希林さんのご主人というのは、そんなに、というか、ほとんど意味を持ってないんです。話を聞いた時もそういうことでお会いしたわけじゃありませんでした。やっぱり音楽、ロックシーンでの彼の役割なんです。
色々ありますよ。もし、彼がいなかったらどうなっていただろう、ということ。そういう重要な局面に彼がいる。いるばかりじゃなくて、彼が起こしている。その時は不本意な結末しか手に出来ていなくても、それが後になって大きな意味を持ってくる。
彼が歌い始めたのは、高校生の時にエルビスプレスリーに出会ってからですね。ロックンロールの洗礼を受けた。最初はシンガーだったわけです。それをテレビで見てました。僕はエルビス少年でしたからね。全然かっこいいと思わなかった。
一生懸命、形をまねようとしてるけど、全然似つかない。故人に向かって何ですが、「気持ちは分かるけど、歌、下手だなあ」と思った。彼の功績は、その後ですね。何よりもタイガースを発掘したことでしょう。大阪のライブハウス、とは当時は言わないか。ロック喫茶で歌っているファニーズを東京に連れてきた。
もし、裕也さんがいなくても彼らはデビューしたでしょうが、ああいうGSブームは起きてなかったかもしれませんね。スパイダースやブルーコメッツだけだったら、あそこまで社会現象にはならなかったでしょう。
その次は、GSが下火になって世界中のロックがニューロックへと変わって行った中で、そういうバンドになっていった。フラワートラベリンバンドがそれですね。ヴォーカル、ジョー山中さん。70年の暮れにカナダに渡って現地で活動、「SATORI」というアルバムをカナダのチャートのトップ10入りさせるんです。
それもアメリカのレーベルからの発売だった。ロックバンドでアメリカのレコード会社から出た先駆け。「TIME」の表紙にもなってるんです。でも、意気揚々と凱旋帰国した日本はフォークブームの真っ最中。72年。「結婚しようよ」の年です。
フラワーは解散、裕也さんは「反フォーク」の急先鋒でした。泉谷さんに「決闘」を申し込んで「ロック対フォーク」という日比谷野音のコンサートを行ったこともありました。フォークに対抗する形でロックのイベントを始めるんです。
去年で46回目だった大晦日の「ニューイヤー・ロックフェス」もその一つ。74年には福島県郡山市の陸上競技場で一週間の野外コンサート「ワンステップフェステイバル」もありました。後楽園球場の「ワールドロックフェス」というのもね。
矢沢さんのキャロルも宇崎竜童さんのダウンタウンブギウギバンドも、鈴木雅之さんのシャネルズも、RCサクセションがロックバンドで注目されたのも、ニューイヤーロックフェスが舞台になったと言って良いでしょう。
竹田和夫さんという名ギタリストがいたクリエーションというバンドを海外に送り出したりもしました。ハウンドドッグのお披露目も武道館で行われた裕也さんの「ロックンロール馬鹿」というコンサートでした。
70年代から80年代にかけて、ユイ音楽工房、キテイミュージック、つまり、フォーライフ、はっぴいえんど系とは違うロックの流れを引っ張っていたのが裕也さんです。まあ、ああいう個性の人ですし、スキャンダラスな事件もありました。でも、あの人がいなかったら、そういう流れにはならなかったようにも思います。
裕也さんと、三年前になくなった元ユニバーサルミュージック会長、石坂敬一さんですね。74年にオノヨーコさんを呼んだのもその二人でした。というような話をちゃんと聞かないとなあ、と思っているうちになくなってしまいました。間に合わなかった、と思いました。
まだ、色々ありますが、とりあえずかいつまんで、です。「日本のロックの生みの親」。問題の多かった父親、ということになるんでしょうか。でも、「ロックはインタナショナルな音楽だから英語でやるべき」という彼の持論は、今、ONE OK ROCKが形にしてます。
というわけで、曲です。裕也さんの曲、沢田研二さんが書いてます。「決めてやる今夜」。あ、「SONGS」の陽水さんを見ました。例によって中身はスカスカでした。あの番組らしいです。じゃ、おやすみなさい。