2019年、四日目。今日も良いお天気でした。こんなに晴天続きの新年というのも珍しいんじゃないでしょうか。そのうち、何年ぶり、とか出てくるでしょうね。ほんとに気持ちいい。気持ちいい、の”い”。拓郎さんの「人間の”い”」みたい。年末の番組で流してました。聞いたは今年ですけど(笑)。
スタジオジブリの機関誌「熱風」で1月から始まる連載「風街とデラシネ~作詞家・松本隆の50年」の二回目の原稿を書こうと思って色々資料をひっくり返してます。あそこに書いてあったよなあとか、どこで見たっけなあの連続。ほんとに時間がかかります。書いている時間よりも資料を探している時間の方が長いです。
というようなことではなくて。松本さんの作詞家デビューが69年のバンド、エイプリル・フールなんですが、他にもその年に起きたことや始まったこともいくつもあるなあと改めて思ってるんですよ。
たとえば、ウッドストックより早かった第一回中津川フォークジャンボリーでしょ。はっぴいえんどや岡林さん、高田渡さん、五つの赤い風船とか、関西フォークやロックを送り出したインデイーズのはしり、URCレコードもそうです。
ウッドストックもあるし、ビートルズの「アビーロード」も50年。政治的には東大安田講堂もその年。音楽だけじゃなくて新しい世代と既成の価値観とが激しくぶつかりあった年。激動の69年でした。
自分のことを言ってしまえば、日本で最初のタウン誌だった「新宿プレイマップ」の創刊もこの年。僕の最初の仕事でした。発行は新都心新宿PR委員会。委員長が紀伊国屋書店の田辺茂一社長でした。
編集長の本間健彦さんは元「話の特集」の編集部員。当時、30歳だったのかな。僕は22歳。創刊した時は編集スタッフは二人でした。海のものとも山のものともつかない、どこに向かうか分からない船出でありました。
何でそんなこと書いてるかというと、はっぴいえんどと内田裕也さんの「英語日本語論争」の最初の座談会が「新宿プレイマップ」だったんです。その時の記事を探したりしていて、何冊かバックナンバーが出てきたりしました。
普段、あんまり振り返りませんからね。もう10年以上前に毎日新聞に「70年代ノート」を連載していた時以来でしょうね。でも、50年ですからね。あの時と感じ方がかなり違います。
こんな風に振り返ることはもうないかもしれないな、みたいな気分。ずいぶん時間が経ったなあという感じ。年取ったなあ、もありますけど(笑)。ひょっとして今年はそういう年になるのかもしれません。でも、自分の年を痛感するだけになりそうで、どっか怖い(笑)。
歴史の転換点というのはああいう時代を言うんだろうなあと思いつつ。浜田さんの「明日なき世代」を。”69年の夏は路上に燃え上がるいくつもの幻影を見たよ”、です。僕も見ました。じゃ、おやすみなさい。明日も良いお天気になりそうです。