故人ですから「西城秀樹さん」ということになるんでしょうが、雑誌のタイトルの引用なのでそのままにしてます。先月かな、「antante」というフリーペーパーから西城秀樹さんのことを書いてもらえませんか、という依頼がありました。
その会社は他にも「コモレバ」という小田急線沿線に置かれているPR誌になるのかな、そういう雑誌を編集している会社で、時々依頼があったりするんです。PR誌にしてはシニアの文化につよいこだわりを持っている編集方針で、面白いなと思ってやらせて頂いてました。
ただ、西城さんはお会いしたこともありませんし、ライブも見たことがない。僕でいいんですか、と確かめたら、あんまり芸能誌的じゃない原稿にしたい、ということだったんです。だったら、お会いしたことはないですけど、なくなってから改めて思う事もあってんで、それを書かせて頂きました。
ただ、フリーペーパーですし、2000字強というそんなに長くない、むしろ短い原稿だったんで、別段、お知らせすることもないかな、と思ってたんです。でも、一昨日か、ここに書き込まれていた方がいらっしゃって、え、もう出てるんだと思ったんですね。
編集の方に「もう出てるんですか」と訊いてみたら、配布する時期ではあるんだけど、西城さんのファンクラブが情報を出してくれて、今日だけで問い合わせが数百件ありました、と驚いてました。
そうなると、何にも触れないのも何だかシカトしてるみたいだなと思って、こうして書いてるという次第ですって、言い訳がましいか(笑)。でも、こんなこと書いてファンからクレームが来ないかなと思ったりもしてたんで、嬉しかったです。
簡単に言うと、男性アイドルとしてではなくて、日本のロック史の中に西城さんを置いてみるとどうなるだろう、という趣旨なんです。あまりにアイドル的な語られ方が多いんで、そうじゃない語り方もあっていいんじゃないか、ということですね。
例えば、広島のシーンの中の西城さん。中学生でロックバンドを組んでいて、拓郎さんのバンド、ダウンタウンズも見に行っている。ダウンタウンズがやっていた岩口基地で演奏もしている。しかも、レッドツエッペリンの伝説の広島公演も見に行っている。高校生の時に親の反対を押し切って中退、上京している。
それだけで、あの時代の拓郎さん、矢沢さん、浜田さんという流れの中にいたことになるわけです。彼が大阪球場のライブを行ったのは拓郎さんの「つま恋」や矢沢さんの「後楽園球場」よりも早い。しかも大阪球場を10年もおやりになった。
それがどのくらいすごいことかは、音楽の側の人ならすぐに分かります。でも、そういうことがあまり語られてないようにも思えたんです。ただ、そういう話を訊く機会もありませんでしたし、僕もそういう目で見ていなかったという反省もありました。
それはね、ひとえに当時の業界なんですよ。”あっち側・こっち側”と言われていた時代。僕は”こっち側”。つまりフォークやロックの側のペーペー。西城さんは”あっち側”の人気アイドル。取材の話なんか来ません。
放送局もそうだったんですよ。同じ局でも「歌謡曲班」と「フォークロック班」は交流無し。どこか張り合っている。80年代に雑誌に書くようになってからはもっと縄張りみたいなもんがありました。
しかも男のロックファンや音楽ファンが男性アイドルが好きとか言いにくい時代だった。もし、彼が当時から、そういう語られ方をしていたら、どうだっただろう、というようなことを書いた、という原稿でした。
「andante」という雑誌がどこで手に入るのか僕もよく知らないんです。発行元はここです。
http://www.conex-eco.co.jp.CONEX ECO-Friends 株式会社.というところです。もし、ご興味あれば。
というわけで、初西城秀樹さんでした。曲ですね。作詞・松本隆、作曲・吉田拓郎、編曲・瀬尾一三という曲、「聖・少女」を。じゃ、おやすみなさい。