二人の個人名です。森田童子さんは説明が要りませんね。平野悠さんは業界の人なら知らない人はいないでしょう。泣く子も黙るかどうかはわかりませんが、日本のライブハウスの歴史そのものという生きる伝説。ロフト設立者。今もロフトプロジェクトの代表。言い換えれば「ロフトと森田童子さん」でもあります。
森田童子さんのことはまたの機会に、と書いてからずいぶん経ってしまいました。どうやって切り出そうか、どんな風に書こうか、考えてはいたんですけど、タイミングが合わなかった。やっとその時が来た感じでした、っていうと大げさかな。
TOKYO FMの「Kei’s Bar」のゲストに来ていただいたのが平野さん。彼をお呼びしたと思ったのは、いつだったか、テレビで森田童子さんのことを取り上げていた番組で彼を見たからですね。彼女のことを話していたんですが、ほんの数十秒。愛情の欠片も感じられない編集。失礼な番組だなあと思ってみてました。
森田童子さんは、83年に引退してるんですが、最後のライブが83年12月の「新宿ロフト」。彼女にとってのホームグランドがロフトだったんですね。平野さんはご自分でも書かれてますけど、彼が西荻ロフトをオープンした73年の夏にカセットテープを持って現れたのが森田さんでした。
森田さん、というとどっかよそよそしいけど我慢してください(笑)。97年にロフト20周年に出た「ROCK IS LOFT」という本があって、各ロフトの全出演者のリストが載ってるんです。森田童子さん、一杯出てました。
西荻ロフトでも新宿ロフトでも毎月出ている。77年に一旦活動を停止した時も「活動休止ライブ」を行ってるし、再開後も「頑張れ新宿ロフト」とか「死ぬなライブハウス」というライブもありました。
というようなこともあって平野さんにちゃんと森田童子さんのことを聞きたい、というのもお呼びした大きな理由でした。彼女のデモテープを聞いた時にどう思ったかとか、今、改めて彼女のことをどう思うかとか、そんな話を聞いてました。
それともう一つは、彼がロフトを始めた理由とか、当時の音楽シーンとか、ロフトが果たしてきた役割とか、彼にしか語れないことですね。71年に烏山に一号店を出して、73年に西荻ロフト、74年に荻窪ロフト、75年、下北沢ロフト、76年新宿ロフトとオープン。70年代はロフトの時代でもありました。
そして、80年代に入って何が変わったかとかね。森田さんの引退もそういう流れの中にあったわけですし。それを誰よりも目撃、体験したきたのが平野さんだったわけです。時代はロックバンドという中で彼女を毎月ブッキングするとスタッフに指示していたのも彼だったそうです。
思い入れ、と言うのかな。共有感。自分たちと同じ景色を見てきている。その中で同じような幻滅も挫折もあきらめも経験している。彼女の歌がなぜあんなに儚くて、なぜあんなに透明で、なぜあんなに哀しいのか。
叶わなかった何か。奪われた何か。失った何か。思い知らされてしまった何か。自分たちが求める正義が許されなくて、そのことによって犠牲を強いられて、社会から断罪されてしまう。その最後のよりどころであり、残された祈りとして歌があった。それが彼女の音楽だった。
平野さんの中のそういう経験と彼女の歌が重なった。彼がロフトを始めたのも、それまでの活動に幻滅したからでもあった。大学で学生運動にのめりこんで、そのまま大学を中退、組合運動に転身していった。革命に人生を賭けた。70年代に入ってのそうした運動の混迷と分裂の中で身を引いて始めたのがロフトだった。
平野さん、僕より二歳上なんです。同じ大学。前から先輩だとは思ってたんですが学年は僕と一緒でした。中大ね。毎年冬になると校舎にバリケードを作って学生が立てこもるという時代です。
授業料値上げ反対、学生会館の管理運営権、そしてベトナム反戦。そういう時代を誰よりも激しく戦った一人だった。僕もその周辺にはいましたけど、もっといい加減で傍観者だった。今も同じかもしれません。
そうか、同学年だったのか、と思った時に、彼の生き方に対しての畏敬の念がより強まったわけです。そして、そういう時代にやはり一途に向き合おうとしたのが高校生だった森田童子さんだった。そのシンパシーでしょうね。
でも、彼女の歌は、その後、当時を知らない世代にも共感を呼ぶわけですから、特定の時代を反映していただけじゃない普遍的なものがあったことになります。とはいえ、今も彼女の歌を聞くと泣きたくなるのは、その頃のことがあるからでしょう。
長くなりましたね(笑)。だからなかなか簡単に書けない。「Kei’s Bar」のオンエアは少し先です。8月の後半の二週です。曲です。森田童子さん。「さよならぼくのともだち」。昨日も友人がガンで入院したという連絡をもらいました。じゃ、おやすみなさい。