と言ってもご存じないでしょうね。アーティストでもタレントでもありません。好きな呼び方ではないですが、そういう分け方をすれば”一般人”という部類に入ることになりますね。社会的な肩書でいうと元会社社長、でしょうか。
その一方でJ.S.Foundationという難民などへの人道支援を目的とした基金の代表もされてました。僕も、そちらの立場でのお付き合いしかありませんでした。お付き合い、というほど深くないかな。話をさせてもらってました。
J.S.Foundationというのは、これもご存じない方のほうが多いでしょうね。浜田省吾さんが志を同じくする人たちととともに99年に設立したものですね。そのパートナーが佐藤さんでした。彼女と出会ったから始まった、と言っていいでしょう。彼の追悼コメントにもそうあります。
前置きが長いですね。その彼女がなくなったことを浜田さんのファンクラブの会報誌で知りました。驚きました。数年前に心臓を患ったという話は聞いてましたけど、去年の春、浜田さんのアリーナツアーでは元気な姿で募金活動もされてました。
確かに秋のファンクラブツアーではお見掛けしませんでしたが、それはツアーの性質上来られてないのかなと思ってました。そういうことじゃなかったんですね。でも、病状とか体調、もしもの時のこともそっとしておいて、という本人の希望だったんだそうです。
同世代なんです。彼女の方が一歳下かな。そうやってツアーの会場で話をするくらいではありましたが、彼女の正義感や責任感、行動力、そして、弱い人や恵まれない人たちへの母親のような優しさに共感と敬意を抱いてました。
一緒に東日本大震災の被災地を回ったことがありました。J.S.Foundationが”絵本プロジェクト”という支援活動をしていたんですね。浜田さんのファンの方が寄贈したいとコンサート会場に持ち寄られた絵本を図書館が流されてしまった街の幼稚園へ届けるというプロジェクト。そこに同行しました。
朝から晩まで車で絵本を運んで回るんです。僕みたいに腰痛がとか、ほとんど戦力にならないんですが、彼女は精力的でした。被災三か月後ですね。まだ爪痕の残る一帯の被災直後の様子をその都度説明してくれました。彼女は直後から現地入りしてました。
その後も被災地に対してはずっと支援を続けてます。そんな様子は、ホームページに逐一報告されてます。もちろん国内だけではありません、むしろ、これまでの活動では国内の比重の方が少なかったと言っていいでしょう。
彼女は自分の仕事で海外を回ることが多く、旅先で難民や貧困を目する中でUNHCR(国連難民支援高等弁務官事務所)を通じてチャリテイ活動をするようになり浜田さんと出会うんですね。
そこで働いていたスタッフの中に二人の共通の知人がいて、その”J”さんがなくなって遺志を継ぐことで始まったのが”J.S.Foundation”でした。というような話は浜田さんのファンならどなたでもご存じという経緯なんですが、そうじゃない方には初耳かもしれません。
同世代の気安さもあったんでしょうけど、学生時代に思っていたことややっていたことと、それを今、どう感じているかが似ているようにも思えたんです。気心が通じている気がした。と言っても、彼女が続けてきたことには頭が下がるばかりです。
大きな団体や企業がバックにいるわけでもない。政治に助けを求めるでもない。小さな個人のささやかな思いでも、いつかは大きな力になる。個人の善意を信じなくてはいけない。そこに国境も民族も宗教もない。
彼女を支えていたのはそのことだけでしょう。新聞の片隅にも載らずに誰にも知られずに命を失ってゆく子供たち。家族を失ったり国や家を追われたり、普通の生活が出来ていれば感染することなどなかった病に苦しむ子供たちが見せる無邪気な笑顔。それが見たかっただけなのかもしれません。
友人や知人がなくなるたびに人の一生って何なのだろう、と思ったりします。そして、そういう場面がどんどん増えてます。これからもっと多くなってゆくんでしょう。でも、こういう生き方をした人がいたんだ、ということで。改めて合掌です。ご冥福をお祈りいたします。安らかでありますように。
曲ですね。浜田さんの心境はこの歌そのものなのかもしれません。「誓い」を。日本戦、泣きました。それはまた。じゃ、おやすみなさい。