・震災から7年。あの日のこと、どんな風に記憶されているでしょう。午後2時46分。忘れられませんね。僕は竹橋の毎日新聞のビルの一階の喫茶店で打ち合わせをしてました。毎日新聞に連載していた「70年代ノート」の書籍が3月10日で、その宣伝のミーテイングでした。
・突然の揺れで喫茶店を出ようとしたんですが立っていられない。とんでもないことが起きていると這うようにしてビルを出て、道路を挟んだ皇居のお堀端に避難しました。ビルが揺れるのが分かりましたからね。
・ビルから続々脱出する人が増えてきて、彼らの口から「エレベーターホールが崩落した」という状況が伝わってきて、もうビルの中には戻れない。ここで呆然としててもしょうがないとミーテイングを終えて歩いて帰りました。
・電話は通じない。余震は収まらない。新宿まで歩いたら西口からのバスはかろうじて動いていて、永福町行きに乗れたんですけど、渋滞で全く走らない。それでも永福町まで何とかたどり着いて、そこからまた家まで歩いた。8時間くらいかかりましたね。
・寒かったなあというのは覚えてます。途中、コンビにで暖かい飲み物とか手袋とか買おうと思っても全部売り切れ。足が棒のようになってましたね。カミサンは立川の駅前で足止め。ネットカフェで夜明かしして、その後体調を崩してました。
・というようなことを忘れてはいけないんでしょうね。津波の様子をテレビで見ながらただ、涙してしまったこととか、その後のコンビニから電池も水もなくなってしまったことや計画停電のこととか。もちろん原発のこともね。
・4月から始まった浜田さんのツアーで経験したことや、J‘s Foundationの人達と行った仙台から大船渡にかけての惨状も忘れられません。まだ7年しか経ってない。そして、いつまたやって来ることは間違いないんでしょう。
・昨日書いたスキマスイッチは「奏」を歌って動画サイトにアップしてました。斉藤和義さんもそうでした。ボランテイアで現地にかけつけたGLAYのTERUさんやLUNASEAのSUGIZOさん、予定外の東北ツアーを行った小田さんとか、殆どのミュージシャンが何らかの形で行動してました。
・音楽に出来る事、今、何をすれば良いのか。誰もがそんなことを考えたのは、戦後初めてでしょう。あれ以降、作風が変わってしまったアーテイストもいます。配信限定シングルが沢山出たのはCDにする途上の工場がやられてしまったからでした。
・3.11の後、どのアーテイストがどんな行動をして、どんな作品を発表したのか。改めて誰かがまとめるべきなんだろうなあと思うんです。誰かって誰だ、お前がやれ、という自分の中の声もありますけど、もうそういう体力はなさそうです。
・今日の市民講座「J-POPの中の武蔵野・三多摩・中央線」で少しでもそんな話が出来たらと思って出かけたんですけど、思ったより沢山の参加者を前にしてどっかに飛んでしまいました。舞い上がってましたね。
・ラジカセの扱いがよく分からず、曲をフルコーラス流してしまったら、2時間の予定が2時間45分。後半はワンコーラスにしたりしたんですけど、手遅れでありました。参加された方、お疲れになったんじゃないでしょうか。僕は楽しかったです(笑)。
・というわけで、2018年3月11日でした。曲ですね。何でしょうね。Mr.Childrenの「祈り~涙の軌道」を。あの日のことを思いながら、お休みなさい。