永六輔さんがなくなりましたね。放送作家、作詞家、ラジオパーソナリテイ、エッセイスト。尊敬する先輩の一人、というよりも、憧れの一人と言った方が良いかもしれません。中高生の時に好きだった日本の音楽の言葉のかなりの作品が彼の手によるものでした。
作詞・永六輔、作曲・中村八大、歌・坂本九。このトリオの歌がどのくらい身近だったか。3人が作った日本語の歌は、それまでの歌謡曲とは明らかに違ってました。特に永さんの言葉は平易で、分かりやすく、日常の会話がそのまま歌になった印象でした。
それまでの歌謡曲にも黄金コンビはあったんですよ。作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正というコンビがその代表例。永さんと八大さんの前から数々の名曲を残した二人ですね。佐伯さんは元毎日新聞だったのかな。新聞記者ならではのジャーナリステイックな発想が新鮮でした。
永さんは放送作家ならではというのかな。難しい言葉が一切ない。声に出してみた時に淀みがない。そして、軽い。軽薄というのではなく、軽やか。フットワークも含めてですね。いかめしい権威にはならない。そういう歌も書かない。ラジオそのものでした。
でも、彼が注目されたのはテレビでしたね。60年代初め、まだテレビが海のものとも山のものとも分からない創世記で活躍した一人。放送作家という職業が世間に知られたきっかけとなった一人。もう一人が青島幸男さんだったことは言うまでもありません。
みんな自由に見えた。それがまぶしかった。ああなりたいと思った。いや、そう思うようになったのは、この仕事をするようになってからですね。違うか。こういう世界に関心を持つようになったきっかけの一人ということになるのかな。
僕は放送作家になろうと思ってなったわけじゃないですからね。新宿のタウン誌「新宿プレイマップ」の創刊の編集者でスタートして、文化放送の「セイ!ヤング」の機関紙を作るということで、そこを辞めてフリーになっていた時に、「放送の台本を書いてみる気はあるか」と言われてこうなったんですね。
見よう見まねで書いてみたら、時代も良かったんでしょうけど、それがそのまま仕事になってしまった。右も左も分からずに仕事をしていた中で具体的を持ったのが彼だった、ということでしょうか。10代の時には別世界だった永さんが俄然身近になった、という感じでしょう。
この話は前にも書きましたね。99年に「読むJ-POP・1945~1999」という書き下ろしの本を出した時、永さんに送ったんですよ。返事が来ました。「拍手!脱帽」という言葉が添えてあった。その葉書を眺めながら風呂で泣きました。これは、僕の中の数少ない美談です。
ラジオでインタビュー出来たのは、一昨年です。FM COCOLOの「J-POP LEGEND FORUM」で中村八大さんの特集を組んだ時。クルマ椅子でスタジオに来て下さいました。現れた時は、ろれつも回ってない感じで、大丈夫かなと思ったらとんでもなかったです。
話始めたら、目は輝いて口調も明快。さりげない話も思いがけないオチがついていたりして、話術の天才と舌を巻いてました。舌を巻く、ね。そうなると巻き舌になるということか。じゃ、違うかって、どうでもいいね(笑)。
何と言うんでしょうねえ。報われたというか、この仕事をしていて良かったと思えた瞬間でありました。でも、もっともっと聞きたいことがありました。その機会はもうないということですね。九さんも八大さんも永さんも、もういません。
一昨年にインタビューした時「八ちゃんのことは一杯話したいことがあるけど、自分の身体がもどかしい」と言われてました。やっぱり心残りはあったんじゃないでしょうか。ザ・ピーナッツの伊藤ユミさんもなくなりました。60年代はどんどん幻になってゆきます。
時代が変わって行く。その時代を生きた人たちの思いや願いとは違う方向に、です。永さんにとって今回の選挙は、そんな結果だったでしょう。他人事じゃないですね。僕らにとっても、か。”僕ら”ね。そのうち”ら”とも言えなくなってしまうかもしれませんね。
曲ですね。ゆずがこの曲をカバーしてます。特設サイトに原稿を書いてます。永さんといずみたくさん。「見上げてごらん夜の星を」を。じゃ、お休みなさい