この間、書きましたけど、続きです。去年の大晦日になくなったラジオのディレクターですね。去年の10月から、FM COCOLOの「J-POP LEGEND FORUM」と東海ラジオの「J-POPタイムカプセル」の二本を担当してくれてました。
今日、誕生日だったんですよ。フェイスブックが知らせてくれました。そうですよね。本人がなくなっても、登録を変えなければ、そのままになってますもんね。改めて思い出させてくれました。68才。僕より一つ下でした。
彼が、どんなことをやってきたかは、この間書きましたよね。一昨年の夏に肺がんが発見されて、もう直らない、一生付き合ってゆくことになりますという宣告をされて。それでも仕事を辞めなかった。最後は病院から抜け出してスタジオに来ていた。
そう、病院からの診断書を見せて貰ったんですけど、事務的でしたね。人体図みたいな絵が描いてあって、細胞の位置がマーキングされている。一番大きいものが、血管にくっついていて取れない。「直りません、一生付き合ってゆくことになります」と書いてありました。
その宣告をされた時が取材の日だったんですよ。それから短い時間の中に、色んな偶然が重なったんですね。その最たるものが、一昨年の3月1日。彼の誕生日。僕等は、結婚25周年でハワイに行ってたんですが、その時、彼も友人とハワイに来ていた。
身体が動くうちに旅行しておきたいという彼の希望を叶えようと、友人がセッテイングしたハワイ旅行で、何と、泊まっているホテルが僕等と一緒だったんです。時期だけじゃないですよ。ホテルまで一緒だった。これを偶然、奇縁と呼ばないで何と呼ぶ、という感じでした。
コンドミニアム風なホテルだったんで、一緒に部屋で食事したり、楽しい旅行だったんですよ。彼も「こんなに楽しいハワイは初めて」という話をしてました。でも、時々、胸が鉄の爪でえぐられるように痛い、とか言ったりもしてました。
ただ、明るかったんですね。自分のガンに”ジョン”と名前をつけてました。ジョン・レノンのジョン。自分が一番好きなアーテイストの名前を自分をむしばむ相手につけていた。うまくやろう、出来れば仲良くしたいということだったんでしょうね。どんな状態でも冗句を忘れなかった。そんな病人でした。
送る会でも話させてもらったんですけど、病状が悪化する中で、半身がけいれんして、救急車で運ばれたこともあったんですね。「クルマ椅子でキューを振ってね」とメールしたら「僕は不死身です。立ったままキューを振ります」と返ってきたことがありました。
実は、この間、彼のことを書いた時、後で付け加えて、次の日に削除した部分があったんです。それは、彼が最後まで自分の好きなアーテイストのコンサートを見ようとしていた。12月の名古屋の浜田さんのライブも「一緒に行こうよ」と言ってたんです。
それは叶わないままになってしまった。三が日が葬祭関係の場所がお休みで、家族葬が年明け7日でした。浜田さんの国際フォーラムの日ですよね。僕は取材で行けない、とお伝えしたら、コンサートが終わってからでも、というんで、終演後に向かいました。
というようなことを書いたんですが、何だか自分で美談にしているような気がして削除してしまいました。でも、彼が最後まで、「浜田さん、見ておきたいんだ」と言ってたのは事実ですし、削除は考えすぎかなあとも思ってました。
フォーラムから、葬儀の場所に向かう間に頭の中で鳴っていたのが、浜田さんの「誓い」だったんですね。”最後まで諦めず闘った友を”というあの一節がずっと鳴ってました。それも事実ですし。最後まで情熱を共有させてもらった友人という意味でも初めての相手でした。
年が近くて大学も同じだったのに、ちゃんと話したことがなかった人間でしたけど、短期間で、本当に分かり会えた気がした。音楽とラジオ。同じ志で闘ってると思えた。この年でそんな相手に巡り会えたことに感謝してます。
というわけで、今はなき友人の誕生日でした。曲ですね。浜田さんの「誓い」、じゃないなあ。こっちだね。彼の新作アルバム「JOURNY OF A SONGWRITER」の中の「HAPPY BIRTHDAY SONG」を。誕生日、おめでとう。じゃ、お休みなさい。