以前、名前は出さなかったですけど、旧知のラジオディレクターがなくなったという話は書きましたよね。彼のことはいつか、と言っておきながら、そのままになってました。その人の名前が加藤与佐雄さんなんですね。
元は東海ラジオの社員ディレクターで、業界では知らない人がいないという名物デイレクターでした。80年代に尾崎豊さんが唯一レギュラーで持っていたラジオ番組「誰かのクラクション」を制作していた人ですね。
尾崎さんがデビューした時、「彼と一緒に番組を作りたい」と事務所に直談判してスタートした番組。なにしろ尾崎さんがスタジオに入って、それから台本を書き始める。それを待ってから選曲をして収録する。30分番組一本録るのに7時間もかけいていたというとんでもないディレクターだったんですよ。
尾崎さんが、爆発的に社会現象になった時に、東京のラジオ局が、なんで名古屋なんだ、全国ネットでやりたいと申し入れた時に、事務所の社長さんが「一本収録するのに7時間も8時間もかけるディレクターがお宅にいるか」と、受け付けなかったという話があります。
80年代には、東海ラジオのこれも名物番組「SFロックステーション」のディレクターとしても名を馳せてました。80年代のロックシーンには欠かせない人物だったんですね。まだ事務所が決まってなかったBOO/WYをユイ音楽工房に紹介したのが彼です。
僕は東京で仕事をしてましたから、これも後で知ったんですが「SFロックステーション」の初代パーソナリティに氷室さんも入ってました。86年ですからね。まだBOO/WYの頃です。どのくらい信頼関係があったかが伺えますよね。
でも、そういう個性的な人で、しかも現場志向が強い人ですからね、会社の管理職になるつもりもなくて、東京で制作会社をやるようになってました。僕が、そんな風に彼のエピソードを知るようになるのもそんなに古いことではないです。
むしろ最近でしょうか。2013年に「BEAT CHILD RADIO」という番組を彼と三ヶ月やるんですね。87年の野外イベント「BEAT CHILD」の映画が公開されるのにあたって作られたラジオ番組。ディレクターが彼で僕は構成とナビゲーターをやりました。
その最中にガンが見つかったんですよ。肺ですね。もう直らないと言われてた。それでも彼はスタジオに入り続けてました。去年の秋から、FM COCOLOの「J-POP LEGEND FORUM」と東海ラジオの「J-POP タイムカプセル」の2本を彼と一緒に作ってました。
「J-POP タイムカプセル」は、東海ラジオさんが、音楽業界での彼の功績を残したいと花道を作る形で始まった番組です。彼の方から僕とやりたいと言ってくれて始まりました。でも、去年の11月くらいから急に病気が進んで、こうなってしまいました。
3月まではということでスタートしたんですが、完走出来なかったわけです。12月は病院を抜け出してスタジオに来てましたからね。生涯現役ディレクターだった。そんな壮絶な生きざまを見せつけられました。最後を看取ったことになりました。
「J-POP タイムカプセル~あの日からあの日へ」は、彼のための番組でしたから、最後の3月は追悼特集を4回やります。今日は、その1週目、「SFロックステーション」の後に彼が93年から始めた「J-POPマジック」という番組のパーソナリティ、小杉之子さんの話を聞いてました。
加藤さんは一年下なんですけど、僕と大学も一緒でした。でも、同時代では一緒に仕事もしてなかったんで、聞けば聞くほど、魅力的な人物だったなあ、と改めて思わされてます。尾崎さんの番組は、その中で再放送するつもりです。というわけで、書きたいことは山ほどありますが。またの機会に。曲ですね。尾崎さんの「誰かのクラクション」を。じゃ、お休みなさい。