岡本おさみさん、なくなってたんですね。今朝の新聞で知りました。そう言えば、昨日、某スポーツ新聞から「小室等さんがなくなったらしいんですけど、何かご存じですか」という妙な問い合わせがあったんですよ。
小室さんとは、二週間前、知り合いのラジオディレクターがなくなって、そのお別れ会でお会いしてましたからね。お酒も飲んでましたし、絶対にそれは誤報です、と言ってたんですが、これだったんですね。
僕より4才上。寂しいですね。知り合ったのは古いんですよ。70年代の初めです。まだニッポン放送の番組の構成をやったりしながら詩を書いていた頃。彼が行きつけだった代々木の飲み屋さんで朝まで飲んだこともありました。
彼はニッポン放送、僕は文化放送。同じような音楽番組の構成をしていて、二人とも拓郎さん好き。でも、彼はもう当事者になってましたからね。半分、嫉妬も羨望もありながら、という関係でした。
詩人でしたね。僕等は、新宿のアングラ、サブカルの中にいましたから、そういう純粋詩人みたいな人をちょっとシニカルな目で見てたりもしました。根っからの言葉の人。浮ついたところがない。自分じゃ浮ついていると言ったりするけど、言葉に対してはいい加減な所のない人でした。
同業だったからでしょう、”田家ちゃん”とか呼んでくれたりしてね。彼も”ちゃんづけ”の似合う人じゃないし、僕もそんな風に呼ばれるのは、照れくさいタイプですけど、彼が言うと、どっか憎めないというか、くすぐったくてどっか可愛くもありました。
やっぱり拓郎さんにが歌った詩が良かったですよねえ。僕がそう思ってるのを知ってたからそんな風に呼んでくれたのかな。だって、75年の「つま恋」は一緒に見てたんですからね。この詩、この人が書いたんだよなあ、とか思いながら。
年は上で、学生運動は直接関わってない年代でしたけど、あの時代、というか、僕等の中にあった居場所のなさとは共通する根無し草的な漂泊感は絶妙でした。五木寛之さんが”デラシネ”と言った放浪感。実際に旅をしながらの生活でした。
それも羨ましかったんでしょうね。あんな風に旅をしながら暮らしてみたいという願望は今もあります。最後にあったのは3年前かな。西日本新聞で連載「ビートルズが教えてくれた」を書いた時に二回会って話してますね。
そう、あの「ビートルズが教えてくれた」の話を聞た時、録音したテレコを後で再生しようとして間違って消してしまったんですよ。そんなこと滅多にないですけど、平謝りに謝って、もう一回お願いしたら「いいよいいよ、二回目の方が話がまとまってこっちも助かるよ」と笑って言ってくれたのを憶えてます。優しい人でした。
その時、年に三分の一は沖縄なんだ、と言ってて、良いなあと思ったりしたんですが、最近は家に戻っていたようですね。今年は、古い知り合いや、世話になった人の訃報が例年になく多いです。年々そうなってゆくんでしょうね。
先はそんなに長くないんだなあと実感させられたり。寒風が身に染みる、心を凍らせる、そんな年末です。合掌。岡本さんが書いた歌の言葉は次の世代まで残るでしょう。微力ですけど僕等が伝えてゆきます。ありがとうございました。好きな歌、たくさんあります。今日は「ひらひら」を。じゃ、お休みなさい。