広島さんチの愛さんという名前のことではありません、って言わなくても分かるか。広島という土地に対しての愛情。この間の、黒田投手の広島復帰の時に目に付いた言葉ですね。20億を蹴って4億を選んだ彼の心情がそう表現されてました。
昨日の拓郎さんと民生さんの対談にも、やっぱり”広島”という土壌が根底にありましたもんね。拓郎さんは生まれが鹿児島ですけど、広島に対しては色んな思い入れを持ってる。民生さんは、もうそれ一筋という感じでしょう。あの街には、他の街にないものがあるんだなと再認識させたわけです。
色んな見方があるんでしょうけど、あの街の歴史がそうさせるということがあるんじゃないでしょうか。結局、そのままになってしまいましたけど、菅原文太さんがなくなった時に、書こうとした「仁義なき戦いと広島フォーク村」というのも、そのことでした。
戦後70年ですからね。戦争という出来事を境にして一変した街の歴史。被爆という負の遺産からどう立ち直ってゆくかという過程での二つの現象。以前、中国新聞で「小説・広島フォーク村」を半年間連載した時に改めてそう思ったんですよ。
フォーク村に関わった人たち、学生だけじゃないですよ。影で支えた楽器店の責任者も含めて、音楽を新しい時代の支えにしようとした。若者たちが主体になって新しい歴史を作ろうとしていた。フォーク村の学生たちの曲に、反戦歌のようなメッセージソングが少ないのはそのせいじゃないしょうか。歌で歌うよりも、自分たちの有り様で新しい青春の時代を示そうとした。
野球もそうですよね。広島市民球場に市民カンパの樽が置いてあって、球場に来た人がカンパして行った。野球が、そういう新しい時代の到来を象徴していた。スポーツと音楽が、これだけ街の歴史と一体になった場所は他にないんじゃないでしょうか。
個人的な話ですけど、僕のオヤジが、まさに”広島愛”の持ち主だったんですよ。彼は、戦後、野球記者をしていて、10年前になくなったんですが、一貫して広島カープに肩入れしてました。新聞記者ですから、担当があるんですが、直接担当じゃない時もそうだったみたいです。
本当かどうか分かりませんけど、オフクロからは「巨人担当は拒んでいた」という話を聞いたことがありました。何かあったんでしょうね。戦争中、新聞記者として戦意高揚、戦争推進の立場だったことの贖罪だったのかなあと思ったりしたこともありました。戦後は、死ぬまで野球以外に関わらなかったですからね。
そういう広島生まれじゃない人にとっても、出身の人にとっても、特別な感情が生まれる街でもあるんだろうと思ったりして、昨日の対談を見ておりました。歴史的な背景を抜きにしても、市内に川があって、緑が豊かで海もある。良い街だなあと僕も思います。
思い出しました。重松清さんが広島カープのことを書いてましたね。明日、本屋に行ってみます。なぜか広島モードの年末です(笑)。あ、新しいPC買いました。同じものですよ。来年に向けて心機一転、準備万端。いい年にしましょう。
戦後70年と広島愛。黒田投手をマツダスタジアムで見たい(笑)。曲ですね。浜田さん「RISING SUN」かな。拓郎さん「いつも見ていた広島」かな。黒田投手の心境は後者でしょうね。じゃ、お休みなさい。