ねえ、人はいつか死ぬとはいうものの、悲しいですよねえ。何とも悲しい。取材したことはもちろんお会いしたこともない人ですけど、やっぱり悲しい。こうして書いていても涙が出そうになるくらいに悲しい。83才かあ、とそれきり言葉もなくなってしまう。
何なんでしょうね。きっと、そんな風に思っている人、多いでしょうね。特に60代以上の男性はそうでしょう。まあ、スターというのは、そうやって色んな人たちが自分の人生を重ね合わせる中に存在するんでしょうけど、彼はどっか特別な感じがしますよね。
スターになってからの方が陰影が濃くなってる感じがする。影を失わない。裏街道の映画が多かったせいでしょうか。勲章をもらった時に「前科者ばっかりやってきた俳優が」という言い方をしてましたけど、二枚目ばっかりやっていた人には出ない存在感でしょう。
あんな風に年を取りたいと思った、数少ない人だったんですよね。若い頃に見た任侠映画も、自分のその頃の記憶にあるということよりも、その後のありようというんでしょうかね。それを強く感じるようになったのは、50代になってからじゃないでしょうか。
こうありたいと思う大人がどんどんいなくなってくる中で、彼だけはずっと、手の届かないところにいたというか。あんな風に背筋の伸びた大人でありたい、何も語らなくて良いから、むしろ、そのことが色んなことを語っている、そんなたたずまいになりたいと思ってましたね。
だからと言って彼の映画を全部見ましたとか、いうんでもないんですよ。まあ、煙草の煙が立ちこめる新宿の地下の映画館でオールナイトで一晩に5本見たとか、そういうのはありましたけど、ここ最近の映画は見てませんからね。でも、大人になってからの方が憧れ感は強かったかな。
50才になる前、それまでオールバック風だった髪の毛を全部切ろうと思った時に、美容院に健さんの写真を持って行ったんですよ。後にも先にも美容院に写真を持って行ったのは、その時だけですね。彼は、15才上だから、彼が65の時か。あんな65才になりたいと思ったんでしょう。
パソコンを始めたのもその頃なんですよ。きっかけは拓郎さんだったんですが、最初に買ったPCが富士通だったのは健さんがCMやってたからですね。あの人が使ってるんなら、俺も使ってみよう、みたいな感じですよ。
20代以降かな、あんな風に生きてみたいと思ったのは健さんと拓郎さんですね、みたいなことを書かれるのは拓郎さんが一番嫌がることではあるんですけど、こればっかりはしょうがない。でも、健さんがなくなった83才までは僕も元気でいようと思いますよ。
追悼企画、色々出るでしょうね。昔の映画もね。任侠映画というのは、今見たらどう感じるんでしょうね。あれもあの時代の流行だったということなのかな。幸い、そういう記憶を懐かしがることでしか生きられないという今じゃありません。
そうやって先を歩いている色んな人がいなくなる中で、淡々と自分の時間を重ねて行くことなんでしょう。と言いつつも何か悲しい。まあ、ここで書いたんで、風呂の中で泣かないですみそうですけど(笑)。ささやかにですが、ご冥福を祈ります。曲ですね。ラジオでは放送禁止です。「網走番外地」。じゃ、お休みなさい。