「MIND OF MUSIC」の大滝さん特集、終わりました。何だか力が抜けたような気分になってます。今朝は5時に起きてしまうし、やっぱりプレッシャーになってたのかもしれません。彼のことを知らない人にもどう伝えられるか。1時間半という時間はあっと言う間でしけど、触れなければいけないことには触れたかなと思います。
改めて色んな音源を聞き直したり、様々な方のコメントを拝見したりしていて、そういうことだったんだ、と思ったことがあったんで、それについて書きます。今、お台場のヴィースポートの喫茶コーナー。これからMaydayのライブです。開演時間6時を16時と間違えて早く来てしまいました。多少時間も空いたし、放送では話しきれなかったんで、追記、みたいな感じです。
評論家の萩原健太さんのコメントがものすごい説得力があったんですね。彼は、数少ない”公認”と言いますか、ファミリー的存在でしたし、出版社勤務の時に大滝さんに会って、「そんなにポップスが好きなら評論家になれば」と言われて脱サラしたという人物ですからね。敬愛の度合いも特別なものがあったでしょう。彼が「大滝さんの理想は”詠み人知らず”だった」という話をしてました。何だか、霧が晴れたような気がしたわけです。
”詠み人知らず”というのは万葉集などにもありますが、誰が作ったか分からない。でも、歌は残っているというものですね。あれが理想だった。大滝さんがなぜあんなに現役性に執着しなかったのか、むしろ、それを捨てようとしていたのは、なぜか。その答えを見たように思いました。
表舞台から消え去ることで、早くそういう存在になりたかった。番組へのメールも、彼自身の作品よりも他の人が歌った曲で名前を知ったというリスナーからのものが多かったののは、その願いが果たされたということでしょうか。僕がお会いしたのは2006年か。「みんなCM音楽を歌っていた~大森昭男ともうひとつのJ-POP」という本を書いた時ですからずいぶん前ですが、その時にもう「現役は引退しました」と言ってましたからね。
アーテイストの自己顕示欲みたいなものがあんなに感じられない 人も少ないでしょう。自分でそういう道を敷いていたということだったんですね。傍目には趣味に徹しているように見えてましたけど、もっとその奥がありましたね。大滝詠一というのは本名ではありませんが、”詠む”という言葉を使っているのも、そういうことだったのかもしれません。
僕は、全く門外漢ですけど、そういう姿勢を日本的と言うことも出来るのかなと思うんですよ。葉隠れ的というんでしょうか。こんなに無節操な業界で、何でもありのポップミュージックの世界で、潔癖なまでに自分の好きな音楽に忠実であろうとした。そして、完成形とも呼べるアルバムを作ることで、そのストーリーを永遠のものにしようとした。”詠み人”に徹しようとした。
そう思って我が身を振り返ってみると、自分の”汚れ具合”に呆然としたりするわけです。業界のしがらみにも魑魅魍魎にも慣れっこになっている自分がいる。まあ、お前のことなんかどうでも良いよ、ということでしょうから、このくらいにしますが。でも、団塊の世代で、退職後に好きな音楽に埋没していたいという方も多いでしょうから、そういうお手本みたいな存在ということにもなりますね。
とは言え、彼の”バトンタッチ理論”というのは、大げさに言ってしまえば自分の中の支えでもあるんですよ。ポップミュージックにおける継承。遺伝子が受け継がれてゆくこと。それを見ることがこの仕事の楽しみでもあるわけですし。大滝さんほど研究者的ではないですけど、日本の音楽がどう流れてきて、どこに向かっているのか、ささやかで微力ですけど、残された僕らがやらないといけないんだろうなあと思ってます。
というわけで、この一週間の”お前は何をやってきたんだ”症候群にピリオドを打ちたい感じです。改めてご冥福を祈ります。Maydayのライブに行きます。曲ですね。番組でも紹介したんですが、松本隆さんのボックス「風街図鑑」にこの曲の背景が書かれてました。はっぴいえんどデビュー前の年に細野さん、大滝さんと東北に車で旅をした時のことを歌ったんだそうです。彼の追悼文にあった”苦く美しい青春”の一ページだったんでしょうね。「1969年のドラッグレース」を。じゃ、また。