だからどうしたっていう感じですよね(笑)。でも、大丈夫です。熱もなく咳も出ず、鼻水ズルズルお腹ユルユルという状態は変わりはないんですけど、喉はだいぶ良くなったかな。鼻声ではありますけど、声は出ますね。これがこのまま直る傾向だと良いんですけどねって、体調報告ばっかりですね(笑)。
打ち合わせ、らしきもの(笑)は欠席させてもらいました。こんな状態で無理してみんなと一緒にいても迷惑でしょうし。その辺は1人だけ頑張っても周りが困るということでもあります。そんな状態で出てこられても、ということですよね。会社員じゃないわけですから、出席することにはたいした意味がないとも言えます。
フル回転とは言うものの、まあ、そんなに死にものぐるいでやるようなことでもないですし。だましだましやりますよ。 という話は置いておくとして、コメントの書き込みにあった昨日の朝日新聞の社説、読みましたよ。ご覧になった方もおいでしょうが、「尾崎豊を知っているか」というタイトルでした。
すごいタイトルだなあ、という印象ですよね。上から目線。要するに今の若者はだらしない、という遠回しな苦言ですよね。「若者たちよもっと怒れ」とも書いてますし。「朝日新聞は、最近の社説でも世界の政治は若者が動かし始めたと書いている」という手前味噌も展開してる。
「尾崎豊はどこへ行ったのか」ですからね。どうなんでしょうねえ。尾崎は苦笑してるかな。まだそんな風に言われるのかとも思ってるかもしれません。でもねえ、「知っているか」っていう「自分たちは知ってるんだぞ」的な物言いには抵抗感ありましたねえ。
確かに、尾崎的な若者は少なくなってるでしょうけど、それは良い悪いじゃないでしょうし。尾崎君の歌だってそんなに社会への反発や不信や抵抗を歌った曲ばっかりじゃないのに、そうやって一面化してしまう。彼の名前を出すことで自分たちの何かを正当化してるようにも思える。
じゃあ、成人式の会場の窓硝子を割る若者を新聞の社説が弁護するかというと、そんなことはしないのにも関わらず、「今の若者は覇気がない」と嘆いて見せたりする。あ~あ、やだやだ。そういうの偽善っつうんだぜ、という感じでしょうか。何の話をしようとしたんだっけ。
さっきニュースを見て消そうとしたNHKで、女川のミニFMのドキュメンタリーをやってました。ラジオを愛する1人として他人事ではなく興味深く見せて貰いました。さいがいFMという名前のプレハブ一つでやっているラジオ。働いているのは、元フリーターや引きこもりや家族をなくした高校生とか、という顔ぶれです。
地域に密着したラジオ。生活感のあるラジオという意味での原点。同時に震災の復興という過程と一体になった人間関係の行き違いやすれ違い。家族をなくした人とそうでない人との意識のずれ。それでもラジオを続けようとする熱意。良いドキュメンタリーでした。さすがNHK。地道に時間をかけて取材してました。
BAYFMの「MIND OF MUSIC」では番組開始以来、毎年、命日付近に尾崎の特集をやってたんですよ。でも、去年はやりませんでした。震災後、明らかに、彼の歌の持つリアリテイが変わった気がしたんですね。もっとやるべきテーマがある気がして、見送ってしまいました。
女川のミニFMをやっていた若者の中にも尾崎豊はいるでしょう。むしろ、彼ら自身1人1人が尾崎みたいな存在なんだとも思うんですよ。つまり、尾崎君に何かを象徴させたり、彼を引用することよりも現実に立ち向かっている若者の方がリアルに思えた、そのことの方が重く感じられたということでもあります。
反抗や反発の象徴としての尾崎ではなくて、優しさや真面目さとしての尾崎というんでしょうか。彼の歌よりも現実が先に行ってしまった、と思えたんですね。そう、書いていてだんだん整理がされてきました。あの社説を読んだ時の的外れな気分はこれだったんですね。
「尾崎豊はどこへ行ったのか」ではなくて、「地に足のついた尾崎豊」がたくさんいるのになんでそれが見えないんだろうということなんじゃないでしょうか。成人の日の社説で嘆くようなことなのかな、という感じでした。教えて下さってありがとうございました。
明日、岡村靖幸のライブなんですよ。尾崎と同世代。どうかなあ、朝起きた時の風邪の具合次第かなあ。ということで、曲ですね。尾崎かなあ。槇原君が歌う「FORGET ME NOT」を。じゃ、お休みなさい。