色んな人がなくなりますね。今日、学生時代のゼミの先生がなくなったという知らせがありました。かなり個人的な話で恐縮です。書こうかかどうしようか迷ったんですけど、さっき知ったばかりで頭の中はかなり混乱というか、動揺してますし、他のことが思い浮かびません。
かと言って書かないのもするべきことをしないでズルした、みたいな気持ちになるのも嫌なんで、毎回のことですけど、どんな話になるか分からないままに書き始めてます。あ、昨日、鈴木雅之さんの曲にしたのは、昨日、広島から帰ってそのままスタジオ直行で彼のインタビューがあったせいです。アルバム「DISCOVER JAPAN」についてでした。
タイトルは日本風というか、聞きようによっては、和風再発見、みたいにも取れますが、全然違いました。彼が改めて良い曲だと思ったという”日本のうた”。結局、服部良一さんに始まる日本のポップスの総括のようなカバーアルバムになってます。今週の「MIND OF MUSIC」です。
というのは昨日の補足。で、なくなった先生のことだ。お世話になったんですよねえ。助けてもらった、というんでしょうか。恩義を感じている人というのはそんなに多くないですが、もちろん何人かはいますが、その中の一人でした。学生時代では、最大の恩義というのかな。
昔話ですけど、僕らの学生時代は、俗に言う紛争時でありました。僕らの大学もご多分に漏れず、冬になるとバリケード封鎖が繰り返されるという状態だったんですね。世の中に対して関心があったり正義感の強い学生は多少なりとも関わっていたと言って良いんじゃないでしょうか。
というと他人事みたいですど、僕もその周辺で、マイクスタンドみたいに振り回しはしなかったですけど、おっかなびっくりで棒を持ったりしてたわけです。そんな中で、ま、学校側から処分されそうになった時に、教授会というところでかばってくれたのがその先生でした。
処分、というのはほら、停学とか退学とか、あれですね。もし、あの時、先生がそうやって弁護してくれなかったら、今の僕はいないことだけははっきりしてますね。その先生は、市川房枝さんの顧問をされていた政治学の教授で、どっちかというと穏健な方で、考え方はいつもぶつかっていたのに、でした。
今年だったかな、京大で携帯を使ったカンニングがあって、大学側が警察に通報したというニュースがありましたけど、あの時も、その先生を思い出したりしました。あの人だったら、絶対に、その学生の一生を棒に振るようなことはさせなかっただろうな、と思いましたね。
彼は、陸軍幼年学校という戦前の軍人エリート養成コースのまま終戦を迎えて、戦後は公職追放にあっていた、ということもあって、国や政府のことをどこか信じてないということもあったんでしょう。いきなり戦争は間違っていた、と言われて途方にくれた、という体験の持ち主でした。
自分とは考え方も違うのに、最後まで学生のことを心配していた先生だったんですね。その頃は、彼の穏健さが生ぬるい、中途半端とか思ったりしていたんですが、大人になるに連れて分かることが色々ありました。教育っていうのはそういうことなんだろうなと思います。
もう十年以上お話しする機会もなくなってましたけど、3.11以降の日本をどう思ってるのかなあ、と気になってました。もう一度話したかったです。そうだ、20年くらい前かな、彼のゼミの学生が浜田さんのことを書いた「陽のあたる場所」を読んでくれてたんですよ。
それを先生が知って「僕の学生が君の書いた本を読んでた、というのは救いだね」と言ってくれたことがありました。合掌です。ご家族の方が密葬されたそうですが、骨を拾えなかったのが残念です。ありがとうございました。
というようなことをここに書いてて良いのかな。書くべきだったでしょうか。と言われて書くべきではありませんでした、とも言えませんよね。でも、書いちゃったんだからしょうがないです。曲だ。そう、この曲があったから書こうと思ったのかもしれません。浜田さんで「遠くへ・1973年・春・20才」を。僕は少し前ですが、景色は同じでした。
ということはタイトルを変えるべきでしょうね。変えます。もとは「訃報」というタイトルで書き始めてましたっって、ここまで書くか(笑)。じゃ、お休みなさい。